生きていく力の分配

 最近の企業の仕事現場などにおいて気になることは、量とスピードと正確さに対応できる能力を社員に過剰に求めていることだ。そうなる理由として、?変化が激しく、作業量が増えていること。?短期的に結果を求められてしまうこと。?苦情に対して極端にナーバスになって、小さなミスも許されないという強迫観念があること、などが考えられる。

 そうして、量とスピードと正確さに秀でた者が出世して管理職になり、ますますその傾向は強まっていく。

 しかし、企業内でそうした空気が強くなっていくと、問題も生まれてくる。それは、<量のための量>、<スピードのためのスピード>、<正確さのための正確さ>をバタバタと追い求める傾向が強くなり、その結果、仕事のための仕事をしているだけという状態になってしまう。いったい何のための仕事か、ということが考えられなくなってしまうのだ。

 作業量が増えて、それを速く、ミスが生じないようにスタッフに行わせるために、作業マニュアルに添ってやることが求められる。そのマニュアルのなかに、仕事に対する方針やビジョンや理念が籠められている場合はいいが、そのほとんどは作業方法の伝達で終わっている。そうしたものに頼っているうちに、マニュアルにないことに出くわした時に、何をどう考えればいいかわからず、応用がきかなくなり、余計な作業が増える。変化にも対応できない。提供される商品もサービスもどんどん味気なくなっていくし、働くことじたいも味気ないものになっていく。

 量とスピードと正確さの過剰な追求が本当の意味で各人の仕事力のアップにつながるかどうか、一度考えてみる必要があるだろう。

 本当に仕事ができる人というのは、少ない作業量を確実に成果に結びつけている。成果に結びつけていくために何が必要かということを体得していると、道理に反したことはしないし、道理に反する気配に敏感なので、あまりミスもしない。

 たとえば一流の職人さんを見ているとよくわかるが、仕事ができる人は、動きに無駄がないし、流れがスムーズで淀みがない。手を動かしていない時は頭のなかで様々なことを考えて、常人には理解できない複雑な思考があるのかもしれないが、作業中は、いたってシンプルなものだ。その逆に、仕事ができない人は、仕事から解放されて手を動かしていない時は何も考えず、作業する時になってあれこれ考えてしまい、仕事が澱むことが多い。

 寿司屋でも大工でも、腕のいい人から作り出されたモノは、特別なオーラを帯びていて、周りの人が惹きつけられてしまう。

 仕事ができる人の第一条件は、速いとか正確であるといった分別を超えて、その人から生じるものが魅力的なことだ。商品でもサービスでも言葉でも。達者かどうかではなく、深い味わいがあるかどうかだ。

 それでは、その極意は、いったいどこからくるのだろうか。

 企業社会と職人の世界は別次元のものだと考えている人も多いが、根本的に変わらないと私は思う。たとえば、有能な営業マンとそうでない営業マンでは、お客とトークをしている時の、その場の気配がまるで違う。サービス業でも、そこに介在する人によって、サービスを受ける人の有り難みがまるで異なってしまう。また、社内で仕事をしていても、例えば会議などで、周りの人の考え方に刺激を与える人もいれば、その逆の人もいる。周りの空気を淀ませて、エネルギーを吸い取ってしまう人さえいるのだ。

 人間にかぎらず、どんな生物でも、自らが糧を得るために働きながら、その活動を通じて、当人が意識していなくても、自分以外の誰かが自立して生きていくうえで何らかの力や刺激を得るようになっている。つまりそれは、自らが働くことによって、他者に生命力を分配しているということなのだ。どんなに小さな微生物も、自分の糧を得るために死骸を解体するのだけど、その結果、死骸は土に還り、他の生物の糧になる。そうした大きなシステムのなかに在る。

 人間は、食べるために生きるだけではなく精神的な生き物だから、「自立して生きていくうえでの何かしらの力や刺激」のなかには、多くのことが含まれるだろう。

 同じ商品を買っても、生き生きとして好感の持てる営業マンに買わされた時の方が、損をした気分になりにくい。相手をあっぱれだと思う気持ちが少しでも生じれば、それだけでも相手から生きる力や刺激を頂戴しているのであって、その対価として金銭を払うことになっても悔いは少ない。腕のいい料理人や気配りに優れたサービスを受ける場合も同じだろう。

 仕事の成果というのは、そのように他者が自立して生きていくうえでの何らかの力や刺激を分配して、その報いを得て、自分も自立して生きる力や刺激(給与も含まれる)を獲得していくことだ。すなわち、仕事を挟んで、その関係者の間に“生きる力や刺激の相互作用”がある状態が成果の達成であり、それが強ければ強いほど、成果が大きいことになる。

 そのように成果のある仕事にするためには、「量」ではなく「中身の充実」、「速度」ではなく「流れがいいこと」、「正確さ」ではなく「理に適っていること」とが大事になるのではないか。

 そういう状態に至ってこそ、その人の仕事は味わい深いものになり、その人のサービスを受けてみたい、その人の作ったモノが欲しい、その人と一緒に仕事がしたいという気持を相手に呼び起こさせる。

 それに比べて、量と速度と正確さだけで頭がいっぱいの人の仕事は、何とも味気ない。その人のサービスを受けたいと思えないし、その人の作ったモノも欲しいと思えないし、その人と一緒に仕事をしたいという気持が芽生えない。

 量や速度や正確さが重視されるのは、それらが数量化しやすく、人を安易に評価できてしまうからだ。自分の中に尺度を持たなくても、人を裁定することができてしまう。

 そして、それに頼っていると、悩むこともなくなるから、何も考えなくなってしまい、結果として、自分の思考や感性の衰えにつながる。

 といっても、味わいというのは、形ではなく“空気”として伝わるものだから、場の空気が読めない人にはその価値がわかりにくい。だから、専門家と称する評論家が跋扈する。自分で企業経営を行ったこともないコンサルタントに高い報酬を払って、人事考課の仕組みを作らせる企業すらあるらしい。

 経営判断というのは、膨大なリスクをわきまえたうえで、前に一歩を踏み出すための最善の策を講じること。コンサルタントと経営者では、リスク感覚(理屈ではなく本能的直観)がまるで違うから、私はコンサルタントを信じたことはない。

 にもかかわらず、修羅場を知らない自称専門家の理屈に頼る悪習は、現代社会の至る所に蔓延している。先入観や固定観念のない素の自分の感覚を開いてモノゴトと向き合うことが少なくなればなるほど、自分の感覚に自信が持てなくなり、コマーシャルやお墨付きに騙されやすくなる。

 そのように自分の感覚で空気を読めない人が増えると、権威のお墨付き(賞とか、有名人が誉めたとか、テレビで紹介されたとか・・)や、点数評価が一人歩きする。企業もそれに乗じることが成果への近道だと勘違いをする。そして、企業の価値観がそうなり、職場の雰囲気はその価値観に支配される。そうした勘違いの連鎖によって、企業は、味わいのないもの=生きる力を殺ぐモノを大量生産してしまう。その悪循環のなかで、次第に大切なことが忘れられていく。

 大切なことというのは、どんな生き物でも、仕事を通して、自分が糧を得るだけでなく、他者が自立して生きていくための力や刺激を分配していくこと。この原則を見失うと、生命体の一種である企業体も、仕事をすればするほど生命力を失い、弱まっていくだろう。

 世の中に空気の読めない人が増えてモノの価値がわからない人も多いが、人間社会も含めた生物の世界には、必ずフィードバックがある。幾つもの失敗に懲りて、点数評価をはじめとする各種の情報が当てにならないことを知り、自分の感覚に頼ろうと努力しているうちに空気が読めるようになり、モノの価値がわかるようになった人も同じように増えている。そのどちらを対象に仕事をした方が、自分の生命力を強くするか、企業も個人もよく考えた方がいいのではないか。目先の形あるものばかりを追っているうちに、知らず知らず企業体や個人として「生命力」が弱まっているということにならないように。

 そして、企業における人材評価についても、仕事の成果は量や速さや正確さだけで計れないことを知り、その人の仕事を通じて、周りにどれだけ“生命力”が分配できているかを見るべきだろう。

 それはすなわち、その人が作り出している“空気”が、ポジティブなものかどうかを重視すべきだということでもある。ポジティブさというのは、仕事とか、自分の関わっている人々とか、商品やサービスなどに対する「愛着」の深さによって生じるスタンスだ。ここでいう愛着とは、好きとか嫌いといった自己本位の分別ではなく、そのものが深く自分ごとになっていること。自分につながるもの(自分自身や後輩や同僚や商品やサービスなど)に愛着がある人は、そのつながりや信頼を大切にし、それらを成長させようとも願う。成長こそ、生命力の証であり、それを願うことが、生命力の分配につながっていくのだ。

 しかし、部下から上司に対しては、愛着など必要はないと思う。必要なのは、畏敬だ。樹齢の長い樹木に対する気持は「畏敬」であり、その「畏敬」は、自分の手が届かない世界がそこにあることを感じるからこそ生じるものだ。そういう力を年輪のように蓄積する努力をしない上司は、部下に媚びて、部下から愛着を持たれたい願望の強い人が多い。そういう上司は、点数や上辺でしか人を評価できないから、彼らが増えれば増えるほど、企業は弱くなる。上司は部下に生命力を分配するからこそ、高い給与を受け取る。

 今日、”優しさ”が大流行だけど、自分に対して優しい環境は、その瞬間の快適さはあるが、そればかりを求めて環境変化に対応できる自分づくりができないと、将来、その快適さは保証されない。優しさというのは、一種の媚びとか馴れ合いとか無関心である場合が多いのだから。

 部下から上司に対する愛着などは、上下関係がなくなった後から振り返って感じるものなのだ。古い大木が切られた後、その木から様々な刺激を受け取っていたことを感慨深く思い出すように。

 自分に厳しく部下に対して愛着をもって生命力を分配する上司が多い会社は、必然的に、上司に対して畏敬の気持を抱く社員が多い。そういう企業ほど、強い企業になる。

 とかく国民の生活のほとんどが企業活動の上に成り立っているのにかかわらず、企業で働いたことがないような人などが、企業活動をステレオタイプ的に営利集団だの何のと言って非人間的活動のように攻撃をすることがある。

 ビジネスよりも、アートとか学問知識の方が格好良くて高尚だなんて勘違いも甚だしい。生命力を帯びた企業活動もあれば、生気がまるでないガラクタのようなアートや学問知識もある。もはや、ジャンルや肩書きや自分の所属組織で自分を語る人は、信用できない。

 何に携わろうが、仕事を通して自分が糧を得ながら、同時に<他の誰かが自立して生きていくための何らかの力や刺激>を分配していくのだという生物の原則に添って生きることを目指すことが、大事なことなのではないか。それは、言葉上のことではなく、人間も生物なのだから、自分の活動の大小や種類に関係なく、生命力の分配のシステムのなかに自分を位置づけないと、生きている手応えを喪失して、心の底から幸福を感じられないのではないかと思う。