風の旅人は、その名の通り、風でなければならない。世の中の良識となり固定概念になっていることを、なぞるようなことや、決まりきったことを繰り返すようなことはしてはならない。といって、一過性の風となって、異端を気取り、無責任なことを勝手気ままにアウトプットすればいいというものではない。
風にも軸はある。軸をぶらしてはいけない。理念は大事にしなければならない。しかし、世の中の流れに柔軟でありたい。といって、それは、世の中に迎合したり、媚びたりすることではない。
「おごらず、おもねらず、いとわず」というのが、風の旅人を復刊させる為に、かぜたび舎を立ち上げた時に掲げたポリシーだ。
20世紀は、専門の時代だったのではないかと思う。
世界が様々な領域に分割され、それぞれの枠組みの中で専門家が生まれ、その力を磨いていた。学問もそうだし表現分野にしてもそうだ。
しかし、個のデータを集めても全体にならないことを、人々は少しずつ感じている。
細分化すれば同じような構成の原子核に還元される一人ひとりが、違った振る舞いをする理由は謎だ。
20世紀を細分化の時代だとすると、21世紀は、統合の時代だと唱える人もいる。インターネットによる連携が、個々の統合を加速化させるだろうという人もいる。
縦割り行政や、蛸壺型組織の企業は、硬直化して、時代の変化についていけなくなっている。壁を取払い、風通しをよくして、対話を促進して、お互いに触発され、異なるもの同士が融合し、それまでにないものが創造されると考える人は増えている。
専門特化した領域から創り出されるものは、専門領域の常識の範疇を超えることはできない。その常識じたいが、もはや魅力的なものではなくなっている。
専門を超えたものの間に奇跡的な接点が生まれた時、新たな常識が創造される。すると、今までとまったく違った視点で世界や自分自身の人生を見ることができるかもしれない。
たぶん、時代は、そういう風になっていくだろう。
そうした風向きになっていく時、人間の行動や思考を支えるうえで必要な理念や美徳がどういうものか、考えてみる。
細分化の時代は、自分が関わっていることだけを考え、そこにエネルギーを集中させ、成果をあげることができた。領域を特定化して、その中に引きこもって仕事をする。でも、そういう分析的な仕事は、コンピューターや機械の方が効率よくできるのだ。
レギュラーなことに没頭する力は、コンピューターの方がすごい。しかし、コンピューターは、レギュラーなこととイレギュラーなことの関係性を引き出すことは、とても苦手。だからフリーズする。
人間にはそれができる。様々な異なる経験を通して、世の中にはイレギュラーなこともたくさんあることを弁え、フリーズすることなく、何かしらの手を打つことはできる。イレギュラーバウンドでも、瞬時に対応して捕球できるよう、自分を訓練できる。
野球選手であれば、イレギュラーボールを処理するためのコツを身体で覚えている。身体に力が入りすぎていてはダメだろう。基本に忠実で、身体の軸はぶらさず、研ぎすまされた感覚を備えている。そのうえで、リラックス状態で、自分の力を最大限に引き出せる選手が、素晴らしい結果を残す。
スポーツだと経験上わかりやすい、この緊張感のあるリラックス状態を、私達が生きていくうえでの精神状態に置き換えてみると、”中庸”ということになるのではないか。
孔子と同じ頃、アリストテレスが、人間の行為や感情における超過と不足を調整する徳としてメソテースという概念を挙げているが、両極端の中間を知る特性が思慮ということになる。思慮というのは、単に考え深いということではなく、物事を実践する為に大切な知のことだ。つまり、本当の意味で、現実対応力がある人は、メソテース(中庸)を備えているということになる。
古代のギリシャと中国の偉人が、同じ時期に同じようなことを唱えているのは偶然ではない。
今から2500年ほど前、古代ギリシャにおいてはソフィスト、古代中国においては諸子百家が存在し、大勢のインテリが頭でっかちな説を唱えていた。それらの説は、どんどんと極端なものになり、本当の意味での現実対応からかけ離れてしまい、一方、現実的という口実での卑小な現世主義も多くでまわっていた。
当時と今は、そっくりな状況だ。特定領域に閉じこもってしまった学問や科学の専門家の言葉は、この世をリアルに生きていく上で、まったく関係ないものになってしまい、一方、現実的な悩みを解決するという名目で、その道の専門家と称する評論家のハウツー情報が無数に登場している。お金儲けの話や子どもの教育の話から、話し方、人の話の聞き方、部屋の片付け方・・・・、数え上げたらきりがない。
中庸というのは、単なる真ん中あたりということではない。極端なAとBの両方がわかるということが前提になる。その上で、AかBかの二者択一ではなく、その二つを総合的にとらえ、二つの間に横たわる問題を見いだし、その問題をどう解決していくかを考えられる全体的な視点と、部分的な視点を同時に備えていること。
行動や態度に関しては、やりすぎてはいけない、遠慮しすぎてもいけない。中途半端で事なかれ主義ということではない。物事を判断する上でどちらにも偏らない。敏感で物事を知り尽くしており、複雑精妙なことは十分に理解できるけれど、敢えて、自分を控えめにできる。
和して同ぜず。協調することの大切さは弁えているものの、表面的に合わせて同調したり妥協したりせず、主体性を持ち、自分の意見を言うべきだと冷静に判断したうえで言う。
異なる価値観が混ざり合うところにおいて、反発し合ったり、卑しく迎合するのではなく、真に尊重し、信頼し合う為には、そうした中庸の精神が大切であり、それは、仕事の交渉でも、政治的な外交においても、今、最も大事なスタンスなのだと思う。
風の旅人のような媒体を作るうえでも、時代のニーズに応えるといいながら、人々の欲求に迎合するという偏ったことは慎まなければならない。
だからといって、作り手の主義主張や趣味を押しつけるという偏りもダメだ。
自分と相手が本質的に重なり合っているところを発見し、それを具体的な形にしてアウトプットすること。さらに、今この瞬間だけに偏った処世術ではなく、過去と未来が重なり合う今をどう生きるかという視点を持ち、考えて形にしていくことが、本当の意味で、継続可能な現実対応ということになるだろう。
野球選手が、イレギュラーバウンドに上手に対応できるのは、リラックスだけではなく、しっかりとした軸ができているからでもある。
人生においても同じで、しっかりとした軸を持ち、かつ柔軟であることが、イレギュラーに対応できるために必須の力だ。それこそが生命力の強さでもある。
生命力というのは、変化対応力と言い換えてもいい。ミクロの粒子が寄せ集まった集合体の、予測不可能な世界への対応力のことを、私達は、生命活動と呼んでいる。
なぜ予測不可能な世界に対応できるのかという理由を探るばかりで自分を作り替えない存在よりも、予測不可能な世界に対応するためには、どういう状態を作り上げることが大事なのか、経験を通して知りながら、自らの在り方を変容させていく存在の方が、生き延びることができる。生命というのは、そのように経験をフィードバックできる賢明な力を備えている。
21世紀は、そういう意味で、生命力を再発見すべき時代なのだろう。
大学などにおける生命学という領域特化したものの研究ではなく、一人ひとりの”いのち”の深みから、生と死、仕事、家族、組織など人生の様々な問題に関するトータルで新しい局面を、切り開いて行く時なのだろう。
そして、人間活動にとって、生命の新しい局面とは、新しい文化を創造していくということに等しい。
これからの時代に吹く風は、そういうものであり、風の旅人の風も、そうでありたい。