第963回 若冲に還る。(後半)

(前半から続く)

若冲は、次のような言葉を残している。

 今の所謂画は、皆画を画く者にして、未だ能く物を画く者を見ず。且つ技を以って售(う)らんことを求め、未だ能く技より進(まさ)る者有らず。是れ吾の人に畸とする所なり。(もと漢文、訓み下し)

 (現代語訳)
 「現今の絵を称するものは、すべて絵を描いているだけであって、物の生気を凝視して描いたものがまったくない。もっというなら、ひとが買ってくれるように技倆を磨いているだけで、その技の向こうにある深い領域にまで達しようともしない。わたしは物を描いているばかりであるが、この点が他の画家と違うところだ。」(引用 「若冲の京都 展覧会図録」文:狩野博幸 より)

 私たちは、単純に西洋と日本を比較し、現代と過去を比較するが、若冲のこの言葉を見れば、そうした分別は関係なく、どの時代のどの場所でも、問題意識を高く持って物事の本質に迫るために創作に取り組んでいる人は、ごく限られているということだろう。
 江戸時代の若冲も、この記事の(前半)で言及したモネやセザンヌマチスも、時と場所を超えて畸人であり、絵を通して同じところを目指していた。
 現代社会においては、絵に限らず、芸術、芸能、工芸の多くは、時間つぶしの鑑賞物になったり、知識教養の素材として消費されてしまうが、”深い領域に達しているもの”は、私たちに、生きていく上で大切な気づきを与えてくれる。
 その気づきとは、私たちが日頃意識することのない森羅万象に宿る普遍の摂理だ。その普遍性に少しでも気づくことは、私たちと世界(他者)との関係性を修正する力となる。
 私たちは、自分の中から生じる力によって様々な物事をアウトプットして生きていると考えがちだ。しかし、実際には、空気や水や食物にしてもそうだが、私たちは、森羅万象から多くの力をいただいて生きている。
 私たちの生にとって、私たちの周りのものから力をいただき、生かされているという事実が大事で、その大事に気づくからこそ、今この瞬間の生を祝い、感謝できる。そして、何かしらの形でお返し(アウトプット)したいという衝動が生まれる。
 そして、自分がいただいているものの大きさを認識すると、自分のお返し(アウトプット)など大したものでなく、申し訳ないという謙虚と詫びの心が生じる。それが、日本人が美学として洗練させてきた”わび・さび”の根本的な心構えであった。
 しかし、ともすれば人間は、そうした本質に気づくことなく、世の中の風潮に染まり、なびき、若冲が述べたように、「售(う)らんこと(奸計を巡らすという意味もある)」を求める。
 若冲は、「吾の人に畸とする所なり」と述べたが、畸というのは、単に人と違っているとか、アブノーマルという意味ではない。
 孔子曰く、
 畸人者、畸於人、而佚於天、」
 畸人とは、人に於いて畸(変わっている)ことで、天(自然界)に於いては佚(安楽で自然)なものだ。

 すなわち「是れ吾の人に畸とする所なり」と宣言する若冲は、当時の人間社会の尺度よりも、天(自然界)の摂理の方が遥かに大事だった。
 こうした若冲に見られるような、安易に世の中の風潮に交わらない、他者になびかない、自分の信念に基づいて事をやりとげるのだという潔く緊張感のある意気地を、日本人は、粋という美学に洗練させてきた。
 わび・さびや、粋をはじめ、日本の伝統的美意識とされるものは、過去の遺物ではなく、自己都合的で本質を見失いやすい人間意識の欠点を修正し、天(自然界)の摂理に立ち返って生きることを促すための普遍的な哲学かつ美意識であり、今でもその意義は変わらない。
 こうした哲学かつ美意識は、私たち現代日本人の意識から抜け落ちているが、潜在的には、私たちの中から完全には消えていない。
 ところで、現代社会で私たちが「才能」という言葉を使う時は、その人間が、知識や教養や技術を備え、みんなが感心するようなアウトプットができる人であるとされる。
 若冲の”才能”について語る時も、天才的な技術を持ち、素晴らしい色使いのできる絵師、目の付け所が独特で個性的で、表現豊かな芸術家と讃えられる。
 若冲に限らず、評論家や学芸員は、そうした説明でタレントやアーティストの成功者を讃えることが多い。世の中の風潮がそんな具合だから、成功を目指す次なる人たちも、より個性的に、独特に、色使いに工夫を凝らし、もしくはその逆をついて、シンプルを売りにしたり、ということになる。すなわち、「技を以って售(う)らんことを求める。」
 しかし、もともと、才は、材のことだから、陶器の場合は土だし、木彫りの場合は木、絵の場合は、墨であったり、描かれる鶏や竹などのこととなる。
 そして、能は、引き出すこと。日本の伝統的芸能である「能」も、自分の表現したいものを表現するというパフォーマンスではなく、生死の境のあちら側のものを引き出して自分という器に入れる所作である。
 すなわち、才能の本来の意味は、自分の力をアピールすることではなく、対象の力を引き出すこととなる。
 この感覚は、現代でも多くの日本人が共有できるものである。
 たとえば、日本の会社における名経営者や優れた管理職、スポーツチームで実績を残す名監督は、自分のアイデアを実現するために人員を使う人よりも、人員の力を引き出せる人であると、多くの人が考えている。
 また、日本料理にしても、優れた料理人とは、旬の素材を見極め、その良さを最大限に引き出せる人のことだ。
 匠と称えられる職人は、大工であれ石工であれ、木や石の性質を知り尽くし、それらの性質を最大に生かすことができる。才能ある作庭家は、自分のデザインに基づいて庭を作るのではなく、石を見て、その石がどこに行きたがっているかを石に聞きながら庭を作るのだ。
 そして、この道理は、生きた写真や文章を組みあげる編集の仕事などでも同じである。
 自分の考えを優先して物作りを行うと、その考えから外れるものは不良とみなされ廃棄される。素材の力を引き出すことが優先されれば、どんなものにも潜在的な価値があるという前提で、その価値を引き出し、生かそうとする。つまり、天(自然界)の摂理に従えば、無駄なものは何一つない。
 城壁の石垣などは、どれ一つ、同じ大きさ、同じ形はないのに、すべての石がしかるべき場所に組み込まれ、全体として極めて安定したものになっている。石を見て瞬時にそういうことを判断できて物を作り出せることが、才能の条件なのだ
 現在は、自分の都合や社会の都合が優先され、その計画や設計や規格に基づかないものは、除外されるか矯正される。国づくりという大義名分を掲げた国家の教育の在り方が、そうなってしまっている。
 経済発展のために、「技を以って售(う)らんことを求める。」ように人を育てることが、現代の教育なのだから、その教育によって、天(自然界)の摂理は損なわれていく。
 しかし、21世紀になって、若冲の絵がアメリカや日本で人々の心を惹きつけるようになってきているのは、とても興味深い現象だ。
 若冲の絵が秘めた貴重なメッセージを完全に意識できなくても、彼の絵から迸る何かが、人々の深層意識に働きかけているのだろう。
 若冲の絵が素晴らしいのは、若冲が考えたデザインや構図や色使いがどうのこうのではなく、鶏や犬や菊の花の本質を決して損なわないように凝視し、観察し続け、筆を走らせ始めると邪念が入る暇もない速度で描き切るという技術を身につけるための訓練を重ね、その結果として、若冲の言葉を借りれば、”能く物を画いている(画によって物の生気を引き出している)”からだ。
 食物にしても、見た目に凝っただけのものは飽きてしまう。けっきょく、素材の良さを最大限に引き出したものがうまいし、飽きがこない。
 デザインを売りにした工業製品よりも、使えば使うほど味が出る自然素材の器や家具を求める人も増えている。
 人間もまた天(自然界)から生まれたものであるから、深層意識は、自然の摂理を知っているし、その有り難みも感じている。
 食べ物にしても持ち物にしても芸術作品にしても、消費社会の中で各種様々な「技を以って售(う)らんことを求める。」物に接してきて、けっきょくは味気ない思いを重ねるだけで、自分の生が、次第に殺伐としたものになっていることに、人が気づき初めている。
 そうした経験を経て、若冲の絵のように自らの深層意識に届くものが、人々を惹きつけるようなってきているのだろう。
 最初は深層意識の中のわずかな揺らぎかもしれない。しかし、そうした体験を繰り返しているうちに、物の良し悪しを判断する味覚や視覚など各身体感覚の本来の記憶が蘇ってくる。
 その身体感覚にそって物事の選択が少しずつ変わっていくと、現代の世の中を覆っている価値観や考え方とは”畸”のもの、逆のものになっていく可能性がある。
 それは、
 生きているのではなく、生かされている。
 不足、欠け、凹み、瑕、何か足りていないものに生気は宿る。
 自分に執着することではなく自分から離れることが、自由。
 享受し、所有する幸福ではなく、尽くし、与える幸福。

 といったことだが、色々と自然の摂理に反することを重ねたあげく、ぐるりとまわって、最後に、天(自然界)の本質に還っていくことになるのかもしれない。
 人間もまた天(自然界)の創造物であり、やがて死ぬことが定められており、その宿命から逃れられないのだから、どこかの臨界点(死の間際かもしれないが)で、天(自然界)の摂理に従わざるをえないと悟る。そのように創られていると考えた方が自然だ。
 大きく脇に逸れたところから、本来あるべきところへの帰還の一歩をどこから始まるかは人それぞれだが、無からの一歩ではなく、私たちの周辺には、若冲をはじめとする畸人たちが、多くの道標を残している。
 それらの畸人たちの仕事、すなわち私たちに染み付いた世間のスタンダードとは異なるものを自分に取り込んでいく姿勢は、若冲が、鶏や植物の生気を凝視した姿勢と、通ずるところがある。
 自分の作るものや自分の名を售(う)らんことを求めているかぎり、天(自然界)の本質から遠ざかるばかり。
 とはいえ、いかにして食べていくのかという難題は残る。
 社会の趨勢が天(自然界)の摂理に沿うようになっていけば、巡り巡ってすべての人が恩恵を被ることになるかもしれないが、果たして今の段階でどうなんだろうという不安や惑いを持つ人も多いだろう。
 わび・さび、粋、清貧といった美徳や美意識は、そうした煩悩をきっぱりと断ち、諦観に転換する先人の見事な知恵でもあるのだろうと思う。

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