第1002回 天の恵みを授かる作法ー鈴鹿芳康の作品世界ー

 鈴鹿芳康は、アーティストである前に旅人である。旅人というのは、実際にその環境を訪れて、土地と空気と水などの物質や様々な価値観をもった人々と身体感覚を通して交じり合う感覚をリアルなものと記憶しているから、その感覚を抜きに、物事を判断することができない。
 旅する人間は、合理的精神が重要視されている人間社会では気にも留められない木々のざわめき、雲の形、月の満ち欠け、風の向き、気圧の変化、地中深くで大地が押し合う気配、気流や磁場などに対して、昆虫や野生動物たちのように神経が敏感になる。
 そのように旅を通じて身体感覚を鋭敏にしている鈴鹿氏は、視覚や聴覚だけに頼らず、物質の微妙な物理反応や化学反応をも感じ取って、ピンホールカメラをセッティングして撮影を行う。そんな彼が1988年から撮影を続けている”聖地”というのは、世間によく知られた名所と限らず、身体感覚を刺激する力が、他に比べて強くなっている場所だ。

 旅人である鈴鹿氏の表現における作法は、合理精神からできるだけ離れ、自然の側に立った時間の中で自然と向き合うこと。持ち運びに不便な8×10インチの大型サイズの、レンズをつけないピンホールカメラを抱えて辺境の地を旅し、太陽の昇る方角と位置を正確につきとめ、三脚をセットし、直径0.3mmという小さな孔を通って差し込んでくる光が像を結ぶのを長時間露光で待ち続ける。
 その間、自然の息づかいを感じながら、のんびりと待っているだけ。写っているかどうかは現像に出した後でないとわからない。
 もともと写真撮影というのは、自分が向き合っている世界を区切り、その構図の中で何かを表そうとする行為だから、人間を中心に限定された世界しか写らないという特性がある。たとえば空や森にしても、その全体から感じられるものと、カメラでその一角をとらえたものでは、その感動はまったく違うものになる。自然の拡がりに対して弱いところがあり、だから自然本来の姿はなかなかとらえられない。 
 また、近年のカメラは、コンパクトで携帯性に優れ、1/8000杪などという目にも止まらぬシャッター速度を実現し、超高感度のデジタルセンサーで暗闇でも写るという人間の都合に大変役に立つ機械であり、その場で撮った画像をチェックして何度でもやりなおしが効く機能なども、当然ながら合理精神によるものだ。
 その高性能機械で、自分のニーズにそって風景を乱暴に切り取り、その切り取り方が上手だとか下手だとか、目の付け所がいいとか悪いと競い合っている。 
 結果的に、一番大事な、風景の向こうとこちらの入り交じるところ、魂が、行き来する彼岸と現実の境が、切り捨てられる。
 鈴鹿氏が現そうとしているのは、まさにその境の領域である。
 彼は、ピンホールカメラの小さな孔に、自然界を包み込む豊かな時間が一点に凝縮して流れ込んでくる気配に神経を集中している。
 写真を通して世界を切り取るのではなく、世界に呼応する魂を何らかの意味あるものとして外に定着させるための集中作業。そうして結ばれた映像は、優れた山水画と同じだ。山水画は、写実的な自然描写ではない。自然の奥行き、はるか下を流れる時間、人間の尺度を超えた大きな時空が、そこにある。鈴鹿氏の作品を前にすると、写真を観ているというより、遥かなる時空を体験しているという感覚になり、記憶の深いところが揺さぶられる。観るということが、目の前にあるものを観ているだけでなく、記憶と重なり合った体験(自分ひとりの記憶というより、DNAに刻まれた人類普遍の記憶)であると、高名な画家が言っていたような気がするが、鈴鹿氏の写真は、そのことをリアルに感じさせる。

 鈴鹿氏の創造活動は、偶然と直観によるところが大きいが、むろんそれだけではない。一つのことに打ち込み経験を積み重ねていくうちに自然の摂理を肌で感じ、その摂理に近づくために、彼は、暦や天文など人類が古代から蓄積してきた智恵を身につけてきた。
 太陽や星の位置、月の満ち欠けなどが、潮の干満をはじめ、地表の現実と大きな関わりを持ち、自分の行動の指針となるからだ。
 それ以外にも、たとえば、彼の風景作品のなかに、時折、虹のフレアが発生しているが、針穴の素材が銅であるかアルミであるかなどによって特徴が異なる。
 感光材に像が描かれる現象も含めて、化学反応である。長時間露光の産物であるから、その時の太陽光線の状態だけでなく、湿度や温度、もしかしたら聖地に特有の微量な自然放射線の影響も受けて、作品はできる。だから、彼が、カメラを設置する場所と時を選ぶ際にも、視覚だけでなく、自分の全知識と全感覚を総動員することになる。風景に向かい合う瞬間は、どこまでも謙虚に、作為を排除して、天からの恵みに任せることになるが、その準備には、それまでの人生の全てが関わっているのだ。
 そういう意味で、鈴鹿氏の作品は、一期一会の結晶である。一期一会というのは、二度と繰り返されることのない一回かぎりの機会のために心を尽くすことだが、その時になって慌てて取り繕ってもボロがでる。自然な流れのなかで互いに相応し、調和が生まれることが重要視されるが、タイミングの読みがとても大事で、それは、日頃の心がけがあってこそできることなのだ。
 しかし、そういう準備がしっかりとなされていても、結果はあまり大した問題ではないという無欲さがないと、わざわざ巨大なカメラを背負って辺境の地を旅し、場所を決めてセッティングし、露光している長い時間を待ち続けて、きちんと写っているかどうか確信が持てないという活動を続けていられない。
 のんびりと待っていられること。それは風景と対立していないからできること。
 鈴鹿氏は、我欲を持たず、敬意をもって自然と心通わせ、ひたすら待つことで、その場に包摂されている。
  そのように待つ姿勢が、「鈴鹿」という主語を消していく。鈴鹿氏が意図的に切り取った写真ではなく、風景の中に潜在的にある何ものかが、自分の方から語り出すものとなる。
 主体と客体、こちらとあちら、撮影者と被写体という対立が無化された、ありのままを受けとめるという全肯定の大きな世界がそこにある。
 待つことの深さは、信頼と肯定の深さにつながっており、それは、人智を超えたものへの信仰であり、彼の作品は、その信仰がなければ成立しない。その信仰が、全ての対立的になりがちなもののあいだをつなぐ媒介となる。
 所属する国や宗教や諸々の団体、また時代背景や社会状況に関係なく、あらゆる人々が、鈴鹿氏の作品を前にした時、自分の内に在る風景だと感じ、懐かしさや安らぎを覚えることもあれば、時には哀しみや有り難みとともに、自省や憧憬の念が起きることもあるのではないか。そういう力こそが、芸術の普遍性なのだ。
 どこまでも謙虚に自然の摂理に従い、天の恵みを授かる作法を身につけた芸術家だけが、一つの作品を通して、世界全体をつなぐことができる。その真理は、古今東西変わらない。


*京都の五条にあるギャラリー、galleryMain [ギャラリーメイン] で鈴鹿芳康さんの写真展が開催されています。
5月14日まで 13:00ー19:30
*展覧会の最終日、5月14日の午後1時から、鈴鹿さんと私でトークを行います。
 この展覧会は、入場料500円ですが、トークショーの時以外に展覧会を観た人は、トークショーのために再び訪れても無料のようです。あと、KYOTO GRAPHIEのパスポートを持っている人も、無料で展覧会を観ることができるようです。
 http://www.gallerymain.com/exhibition2017/suzuka.html