第1001回 「室礼展」に見る、緩く心地よいつながり。中央集権的な構造から分散処理的な構造へ。

 京都ではKyoto Graphieという写真祭りで盛り上がっています。私も、この期間中、「The Terminal Kyoto」というところで、最近、ピンホールカメラで撮り続けている古樹の写真を、和紙に出力して展示させていただいています。
 Kyoto Graphieが写真メインの展示に対して、「The Terminal Kyoto」での展覧会は、「室礼」という切り口で、写真だけでなく、工芸や美術作品なども一緒に京都の伝統的家屋である京町屋の中に配置していることが特徴です。
 写真や工芸が響き合って、面白く、居心地のよい空間になっています。それぞれの部屋と作品は、こういうものです。https://www.facebook.com/kazesaeki/posts/1538936189459125?pnref=story
 美術館のように壁と向き合って見るのではなく、座り込んだり、寝転んだり、時には窓の外の庭に目を向けたり、いろいろな味わい方ができます。

<テーマ>
混迷と分断の時代、外部からの異人を和の心で歓待しながら、異質のせめぎ合いを溶かしこむ調和と融和の文化の創造を希求する。趣向を凝らして配置された写真や工芸は全体を構成する要素として共振しながら一体となり、主客も金剛合掌のように重なり合い一体となる。「室礼」の志は、生活の場所であると同時に精神的、創造的存在として日本のかたちそのものである町家の中に、古今東西で枝分かれする人間文化を根元で和合させること。

 ぜひ、足をお運びください。入場無料です。
 展示は、4月22日(土)から5月19日(金)です。場所は、ここです。京都の四条通り、烏丸の近くです。 https://www.facebook.com/theterminal02/

 Kyoto Graphieが一つの建物に一人の作家の作品を展示しているのに対して、室礼では、様々なアーティストが共同しているのですが、私は、自分の写真を出すだけでなく、一つの部屋のディレクションを行い、皮革工芸作家の河野甲さんと、画家の廣海充南子さんに声をかけて、空間を作りました。昆虫や麒麟など想像上の生き物を皮革で精密につくりあげる河野さんは、私の写真を見て、”虫の死に様”をイメージしたと、参加を引き受けてくれました。廣海さんは、下絵無しのフリーハンドで、驚くべき調和と均衡のとれた様々な曼荼羅図を描くのですが、最初は河野さんと二人でコラボレーションをしようと考えていたところ、偶然、廣海さんの作品を見る機会があり、一目見て、今回のテーマにぴったりだと思って参加してもらいました。
 私がディレクションした部屋のテーマは、こういう内容です。

 天地の眼

 いのちの働きに、初めも終わりもない。
 過去、現在、未来にわたって変わることもなく、
 あらゆるものが、働き合い、補い合いながら連続し、
 その模様は、たえず変わり続ける。
  
 いのちは、すべてのものに分け隔てなく行き渡っているが、
 食べるものと食べられるものが存在し、
 前の条件が後のものを限定する。
 しかし、食べられることで別の形で生きることや、
 前の条件が壊れて次の土台となることもある。


 時には、いのちの冒険によって、新たな生の条件が作られる。
 水中から陸上へ、大地から空へ、森からサバンナへ、大陸から別の大陸へ、
 新たな生の条件によって、多様なすみわけが進む。
 そしてまた、互いに関係し合い、調和と安定を目指し、矛盾を生む。


 今回、様々なアーティストや工芸作家と共同して感じたことは、こうした取り組みは、まさに中央集権的な構造から分散処理的な構造へと移行しつつある時代を反映しているのではないかということです。
 どういうことかというと、一般的な展覧会のように、中央に実行委員会のような組織があって、そこがお金を集め、運営方針を決め、全体の計画を立て、それに基づいて個々の内容を取り決めていくという中央集権国家のようなやり方ではありません。
 運営の趣旨に関するコンセンサスをしっかりととり、参加するアーティストや作家が、その趣旨をどう具体化するか考え、それぞれの持ち場でそのアイデアを発揮する。その上で、それぞれの持ち場が、他の持ち場を見ながら、響き合うように修正をくわえる。全体として緩く統合する連邦国家のようなものです。
 中央集権組織の場合、お金を集めるところが大きな権限を持ち、そのお金を各部分に配分することで成立するわけですが、連邦組織の場合、お金を集める中心はなく、それぞれの持ち場を運営するものが、いろいろなネゴシエーションを行ったり、手持ち弁当で仕事をしたり、工夫を凝らします。
 もしも、この多彩な作品の組み合わさった「室礼展」を中央集権的な組織で行うと、相当なお金がかかったはずです。連邦組織だからこそ、それぞれの現場は、自分たちで責任をもって行うという意識が高く、施工のプロに仕事を丸投げするということも当然行わず、自分の手で行いました。
 中央集権的な組織で何かを行おうとすると、その莫大な予算のやりくりのために、権力や商業スポンサーに依存し、へりくだることになります。それこそお金の切れ目が縁の切れ目、スポンサーがつかなくなったり助成金を打ち切られると、実行の終焉となります。
 日本国家も、これまで中央権力がお金を集め、そのお金を配分するイニシアチブによって、中央が権威的な存在となる構造でした。
 何を行う場合も、その権力に頭を下げ、従わざるを得なかったわけです。しかし、その中央権力の財源が枯渇し、大赤字となり、その無駄遣いが非難を浴びています。
 従来の権力構造が限界に達し、そろそろ構造変化が起こる気配が出てきているのです。
 沖縄などがその先駆けとなり、日本全体が、もう少し分権化され、それぞれの地域にそった運営方針とルールが制定され、連邦化され、全体が緩く結合する時代の訪れを夢想します。
 観光が柱になるところもあれば、文化が重要なところもある。過疎が問題のところもあれば、人口集中による弊害の大きなところもある。全国均一の税制やルールで管理することが、もはや不可能なのです。
 たとえば京都などでは、企業や個人の判断で伝統工芸や伝統文化を援助する場合には税制優遇措置がとられるような仕組みになれば、それらの伝統分野に携わっている人たちは、様々な企業に積極的に働きかけることができる。国の助成金に頼るだけだと、国の定める基準にそっているかどうかだけで判断されてしまいますが、交渉相手が様々な企業や個人であれば、たとえ”集客数”が少なくて現時点での公共性がなくても、将来的に大事だと判断する社長や個人が存在すれば、資金の援助を受けることができるのです。
 少し前、山本地方創生相の「学芸員はがん。一掃を」発言が波紋をよびましたが、そもそも、こうした発言や、それに対する非難には、日本の学芸員と、欧米のキュレーターの役割や責任や権限が違っているという前提が抜け落ちています。
 欧米のキュレーターは、美術館などの運営資金に関する責任もあり、その権限もあります。国から配分されるお金を待っているしかない日本のような状況ではない。なかには、資産家をまとめたツアーを組んで、自らが添乗員になって海外の美術品を見るための案内をする美術館長もいます。資産家に作品を買ってもらって美術館に寄付してもらうためです。美術品の研究の前に、自分の責任と行動で、美術館の運営をしなければいけない。そういう意識を持てる環境にあると、おのずから働き方や働き甲斐も異なってくるのでしょう。
 山本地方創世相の失言の時に、学芸員を労働者とみなし、労働時間や仕事量のことで異議を唱える人もいました。ようするに、国家が、学芸員を含めて国民に対して、もっとしっかりと働けと脅し、そうしないと国が強くならない、みんなが豊かにならないぞと、あいかわらず高度経済成長時期の論理をふりかざしているということが問題なのです。
 単なる労働者とみなされているから労働意欲もわかなくなっているという、この時代の事実認識の方が大事です。
 私が参加した今回の「室礼展」の展示の準備が、雇われ労働者のように労働時間ではかられるようなものであれば、参加意欲も低く、よりよくするための主体的な努力もあまり行われなかったでしょう。
 何よりも、参加することに喜びも楽しみもないし、達成感もない。人と人との連帯も弱い。
 中央権力に管理されて結束させられた組織よりも、連邦的なつながりの方が、人間と人間のつながりはより深くなります。そのつながりは、誰に命じられたものでもなく、それぞれに対する敬意と信頼と配慮に基づいているから。


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