第988回 生死を越えてつながる命の時間


 昨年の林忠彦賞を受賞した船尾修さんが、15年以上前、アフリカのピグミーの人々と一緒に暮らしながら撮影した写真の写真展が、大分市のギャラリーおおみちで、2月28日まで開かれています。
 風の旅人でも10年くらい前(たしか25号くらい)、シリーズで連載しました
 私は、この作品のことをよく知っている一人でもあるので、写真評論家でもないのに大分合同新聞社に文章を寄稿することになりました。2月18日に掲載されたそうです。
 船尾さんのように、森の中で5ヶ月にもわたって暮らしながら取材を続けるという姿勢に、私は、非常に敬意と憧憬を感じます。マラリアにうなされながらですからね。1週間とか10日、まあ1ヶ月くらいなら、わりとできる人はいるんです。でも、5ヶ月というのは、別次元の忍耐力というのか、順応力というのか、鈍感力というのか、超人めいたものが必要です。身体的にも、生理的にもそうだし、世間の価値観、風潮、社会の中での自分のポジショニングなど意識してしまうような精神ではダメですね。

<以下、新聞寄稿文>
                                    
 船尾修は、二〇世紀末、クールビズなどのお手軽な環境ブームに違和感を覚え、自分なりに環境について深く考えるために、五ヶ月にわたって森の中でピグミーの人たちと生活を供にした。そして大事なことを教わった。
 私たちは、自分が食べたもので身体を作っており、だから私たちは植物であり動物であり、同時に水や太陽でもあること。そのことを理屈で理解している人は多い。しかし、身体で深く感じていないから、必要以上に物を得て、安易に捨てるという行為は止まらない。
 生活に必要な食物や道具を森からいただくピグミーの人たちと暮らしながら、船尾は、マラリアを患って高温でうなされていた時でさえ恐怖を感じず、ここで死んでも自分の身体を構成している物質が森の中を循環していくだろうと安らかな気持ちになったと言う。
 死を意識せざるを得ない状況でさえ、自分は孤立しておらず、世界とつながっていると感じられる境地。そこまで環境と一つになっているから、環境が損なわれることが自分の手足をもがれることと同じになる。
 現代の条件において、その感覚を保つことは困難かもしれないが、船尾は、ピグミーの森の中で学んだものを生かすために、その後、東京から国東半島に移住し、自然農を実践し続けてきた。
 彼は、常にそうだが、写真を撮る以前に対象との関係づくりを重視している。息遣いが感じられるくらい距離を近づけないと見えてこないものがある。そして、一衣帯水の関係になると、言葉や写真で彼らの尊厳を損えないという気持ちが強くなる。 
 自分のアイデアを誇示するために人や物を材料にし、自らの迂闊さによってその本質を歪めても罪悪感を感じていない撮影者は、プロにもアマチュアにも多いが、対象への心遣いのない情報の洪水に飲まれ、私たちは、人や物に対する感謝や敬意を失っていく。そして、自分を取り巻く世界とのつながりがわからなくなり、自分を孤立させていく。だから、不安、不満、恐れ、妬みといった負の感情の呪縛から逃れられない。
 船尾は、誠実に対象と向き合い続けることで、生死を超えてつながる命の時間を、写真に「うつす」ことができた。その命を少しでも感じられれば、彼がピグミーの森の中で感得した死の安らぎも、少しは理解できるかもしれない。