第987回 日本の誤算(後半)

 (前半)から続く
 一ヶ月前、青森県六ヶ所村に行った。その時、経済産業省の国家公務員も、元東京電力で、現在は高レベル放射性廃棄物の最終処理場を決めるために作られた原子力発電環境整備機構の社員も一緒だった。六ヶ所村の住民、六ヶ所村の再処理工場の広報、むつ市で進められている使用済み核燃料の中間貯蔵設備などで説明を受けた。
 そのあいだ、”一番知りたいこと”を質問しても、誰も明確に答えられなかった。
 その理由は、原発の建設から核燃料の調達、原発の安全審査、放射性廃棄物の処理の問題、放射能による被害の検証と保証が、経済産業省、国土省、環境省、厚生省、文部科学省と別々の管理責任であり、全体を把握している人がいないからでもある。
 私が知りたい非常に重要なことを、原子力行政に関わっている彼らに尋ねても、知らないことに驚かされた。(実際は知っているけれど敢えて黙っているということもある)
 私が一番知りたかったことは、もんじゅ廃炉が決定し、核燃料サイクルが頓挫しているのに、2018年から六ヶ所村で使用済み核燃料の再処理が予定されているのはなぜか?ということだ。再処理工場の広報の人は、使用済み核燃料の再処理は、もともと高速増殖炉のためではなくプルサーマルのためだと、明らかに矛盾した答えをした。今、彼らは、ホームページなどでもそういう答え方をしているが、これは詭弁だ。なぜなら、プルサーマル原子炉は、本来、ウラン燃料を使用するために設計されたもので、使用済み核燃料の再処理で取り出したプルトニウム核分裂させることを前提に作られたものではない。
 プルサーマルは、もんじゅのトラブルが続き、高速増殖炉の完成がいつになるかわからない状況のなかで、蓄積しているプルトニウムの処理のために苦肉の策として実施されているもの。なぜ苦肉の策かというと、プルサーマルで使うMOX燃料のコストは、フランスなどに作ってもらっていることもあり、ウラン燃料の9倍もするからだ。2019年に完成する予定の六ケ所村の工場で作るようになると3倍くらいと聞いた。
 そして、なぜ使用済み核燃料を再処理をするのかという問いに対して、経済産業省の人は、再処理をすることよってゴミの体積が小さくなり、プルトニウムが取り除かれてガラス固化されるので再臨界核分裂反応)の可能性がなくなるからと答え、さらに、「もんじゅ廃炉は決まったけれど、高速増殖炉を諦めたわけではない」という答えが返ってきた。
 ゴミが少なくなり危険が少なくなるかのような言い方は、取り除いたプルトニウムを、ゴミではなく燃料と定義付けているからだ。でも実際は、プルトニウムは最悪の毒物とも言われ、さらにウランよりも簡単に原爆の材料になり貧者の核爆弾とも言われる。半減期も、2万4千年である。もしも燃料として使えなくなると、取り扱いの厄介なゴミの塊である。使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り除いても、プルトニウムの取り扱いをどうするかという問題が、未来へと先送りされる事実に変わりはない。
 そして、経済産業省の人が、「高速増殖炉を諦めたわけではない」と言った理由は、ロシアで、その高速増殖炉が動き始めているからだ。あの広大な国土の真ん中、ウラル山脈の近くで。
 もんじゅ廃炉が決まったのに六ヶ所村で再処理をする理由として、関係者から聞けたことは以上の内容だ。
 どの答えも、十分に納得のいくものではない。
 そして、私は、私なりに考えた。
 一つは、総括原価方式の問題。現在、使用済み核燃料は、核燃料サイクルを行うという前提のもと、電力会社の資産になっている。そして、総括原価方式によって、資産の3%分を電気代に乗せていいことになっている。燃料や原子炉などを安定的に維持していくためだ。使用済み核燃料の資産価値は15兆円と言われているが、もし、使用済み核燃料が、燃料ではなく、ただのゴミになってしまうと、電力会社の収入が大幅に減るうえに、不良資産になってしまう。
 二つ目が、日本が抱える膨大なプルトニウム原発5000発分)の問題。アメリカとの日米原子力協定が2018年7月に有効期限を迎えるが、日本がプルトニウムを保持できる条件が、プルトニウムの平和利用(つまり原子力発電)だ。
 近年、日本が再稼動させた原発は、鹿児島の川内、愛媛の伊方、佐賀の玄海。一昨年前に、トラブルがあって挫折したが、福井県の高浜原発2機を再稼働させようとした。
 これらは、なんと、鹿児島の川内を除いて、プルトニウムMOX燃料を使うプルサーマルばかりだ。
 日本国は、2019年以降も日米原子力協定の効力を継続させるために、プルトニウムを平和的に使う姿勢をアピールしなければならない。使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出して、プルサーマルで使うというサイクルを通して。どんなに燃料コストがかかろうとも。
 三つ目は、これがけっこう難しくて重要な問題だが、再処理をしてプルトニウムを取り除いた高レベル放射性廃棄物ですら最終処分場の確保が難しいのに、臨界(核分裂爆発)の可能性もあるとされる使用済み核燃料そのものを運び込んで最終処理をする場所など、見つけることができるのかという問題。
 フィンランドは、再処理をせずに最終処理をする施設を決めたが、100年かけて運び込まれる使用済み核燃料は9000トンほどで、日本はすでに17000トンの使用済み核燃料がある。この膨大な核のゴミをどう扱えばいいか、誰にもわからない。
 六ヶ所村の人たちを会って話をしている時、2018年から予定されている使用済み核燃料の再処理は、本当は、ズルズルと延期された方がいいと思っているかもしれないと、ふと思った。
 始まったら何か深刻な問題が発生するかもしれない。始まらずに準備だけをしていても、国からお金が入ってくるし、準備段階でも、雇用が維持される。
 こういう書き方をするとお金目当てかと非難する人がいるが、お金で贅沢に暮らすということではなく、出稼ぎで一年の長い期間を家族バラバラに過ごしていたが、地元に工場があることによって、ずっと家族で一緒にいられるという、ささやかな願いが実現できるということ。再処理工場の危険性も恐ろしいが、その恐怖よりも、家族一緒に暮らせる幸福を六ヶ所村の人は選んだということ。そして、自分たちが引き受けなくても、他のどこかが引き受けなければいけないのであれば、自分たちでいいじゃないかと、長い期間の葛藤をへて、住民の多くが、心を定めているということ。そういう話を、六ヶ所村の人たちから聞いた。いったい誰が、その決断を非難することができるだろう。
 しかし、おそらく彼らも、工場はできたが、ずるずると稼動が伸びて、準備だけをしている状態の方がいいんじゃないかと、ふと私は思ったのだ。
 上に述べた総括原価方式による電気代のことも、プルサーマルの稼動のことも、ようするに、形だけでも使用済み燃料をゴミ扱いせずに燃料として位置付けて、平和利用のポーズのため、プルサーマルで使っているという事実を作っておくことで、ややこしい問題にならない、という日本国家法人の経営者たちの考えが反映されているのではないだろうか。経済の問題で原発の再稼動を進める必要があると主張するのは、そういう言い方の方が説明しやすいからで、上に述べたような複雑な事情を説明するのは、とても面倒なこと。説明しても、うまく伝わらないかもしれないし、別の角度から非難を受ける可能性がある。たとえば、総括原価方式などは、「なんで使用済み核燃料の分を電気代で負担しなければならないんだ!」という声があがるのが目に見えている。
 国家法人の経営者としては、電気代にこっそりと上乗せしておかなければ、今後の廃炉その他のコストをどうするか、不安材料が多すぎる。
 だから、ノラリクラリと、時間をかけて、プルサーマルを中心に再稼動していく。
 東芝の問題で表面化したが、原発の新規の建設はリスクが大きすぎてどの企業も請け負わなくなっているので、現在あるものが耐用年数の限界にくると、その先はない。それまでは、プルトニウムを平和的に使っているとアピールしながら、のらりくらりと続けていく。そのあいだの保守管理や、廃炉は大事な仕事なので、国家法人は、東芝や三菱や日立を大事にしなければならない。
 この一連の動きは、のらりくらりでも動き続けていることが大事で、止めてしまうと、一斉に矛盾が吹き出す。
 原発の廃止を公式に決定することは、核燃料サイクルの廃止決定という意味でもあり、その瞬間、だったらおまえが持っているプルトニウムはどうするのだと詰め寄られる。さらに、使用済み核燃料は資産ではなくただのゴミになるので、廃炉などのコストは大丈夫かということになる。そして、原発関連施設の誘致先の交付金はどうなる? 雇用はどうなる? 廃炉を行う技術者はどうなる? 廃炉までの保守/管理をどういう体制でやる? 他にもいろいろな問題が出てくる。だから、やめるとは言えない。この先は行き止まりだとわかっていても、しばらくは、だらだらと続けておくしかない、という判断をするしかないからそうしているのだろうという気がする。
 アメリカのエリート達も、そんな日本の事情はわかっているので、原子力シェールガス液化天然ガスで揺さぶりをかけながら、日本に貢がせることができる。
 現在、炎上している東芝問題は、日本の原発がすべて廃炉になり、高レベル放射性廃棄物の処分が実際に行われて終了するまで、形を変えて永遠に続くのだろう。
 他の産業なら、窮地に陥ったら、売り払ったり清算したりして更地にできるけど、原発は、放射性廃棄物が残るかぎり、国家として、完全に撤退できない。
 そして、プルトニウムの問題。核燃料サイクルと形だけでも整えながらでも、プルトニウムを保持し付ける理由。
 いつでも原爆を作れるのだという安全保障上の問題が、どこまでからんでいるのか、私の頭では何も言えない。
 それは、私が国家法人の経営者ではないからでもある。経営者が、どう判断しているのか、一般の社員には、なかなかつかみにくい。とくに、組織の規模が巨大になると。
 経営者は経営者なりに、国家法人の生き残りのための非常時の手段として、いつでも原爆を作れるという備えが必要だと判断している可能性もある。
 そして、そのことが国家法人のどんな経営リスクにつながるのか、今の段階では読めない。