第994回 写真に言葉は必要か否か


 写真も、言葉も、それを作り出した人間も、それ単独では不完全なもの。それが存在するだけで、知らず知らず世界を損なっている。それは、大脳を発達させてしまった人間の宿業。生命の生存に直接に結びついた小脳と違い、大脳は、経験を応用的に処理し、より快適に、より心地よく、より自分に都合よく生を作っていこうとする働きがあるのだから、やむをえない。
 そもそも生命の矛盾の中で生きているのが人間の生。だからといって、大脳の暴走を看過するしかないということではない。大脳の得意とするのは、あくまでも応用であり、100%完全ではないからだ。もしも小脳でなく大脳が心臓や呼吸を司っていたら、1%の応用ミスでも死につながる。
 人間が大脳の働きで新たに作り出すものは、経験の応用であり、真の創造ではない。だから不完全である。その不完全さをどれだけ自覚できているかが、人間の良心を計るバロメータなんだと思う。
 大脳の暴走の一つである自己承認欲や自己顕示欲が肥大化すると、その良心が失われ、自分が使う手段で対象(世界)を損なっていることに無自覚になり、害のあるものを撒き散らすことになる。
 写真単体や言葉単体で、対象(世界)を著しく損なってしまうこともあるし、写真と言葉を組み合わせて、さらにひどく対象(世界)を損なってしまうケースも多い。
 その逆に、写真という人間の一つの応用力で、対象(世界)の真実に、かぎりなく近ついている偉大な人もいるし、自分の手段の不完全さを自覚し、真実に近づくために言葉の力を得ることが必要だと判断する良心的な人もいる。
 ただ一つ言えることは、現代社会のように大脳の働きが肥大化し複雑化した世界において、写真単体で、世界の普遍性や真実にどれだけ近付けるかということだ。
「一枚の写真が世界を変える」などと、おこがましいことが言えるかどうか。
 「世界を変える」と考えること自体がおこがましいこととも言えるが、世界に対する問題意識から発していない表現は、自己承認欲か自己顕示欲の産物でしかない。つまり、「自分のことをもっと知ってください、自分はこれだけすごいんです。自分を支持してください。いいね!をたくさんください」という気持ちの反映。
 可能性としては、おそらく言葉の方が、幾分写真よりも、世界や人生を変えうる可能性がある。人生を変える言葉は、人生を変える写真よりも、多いはずだ。それは、写真の歴史がまだ200年にもならず、言葉は、人類の歴史とも言えるくらい長いからだ。その歴史を無視して、言葉なんかいらないと言い切れる人は、人間のことがまるでわかっておらず、人間のことをわかろうともしない人が、表現を続けていくのは、傍目に辛い。
 しかし、20世紀以降、人間の感受性は、害のある多くの写真によって歪められ、損なわれている。その感受性を修正する力は、言葉ではなく写真だからこそできることだし、現在の写真の使命はそこにあるはず。単なる自己承認欲求の産物で、世界を歪め損なっていくことに加担していくのではなく、写真によって世界が歪め損なわれていることを自覚して、それを修正する写真を作り出そうと努力することは、大脳の得意な経験の応用力でできる。大脳の一番良いところは、きっと、そうした反省力であり、それが大脳の良心なのだ。
 写真に限らず人間にとって一番危ういことは、対象(世界)の真実からまるで離れ、対象(世界)を歪め損なっているだけなのに、そのことに無反省に、また、自分のやっていることの不完全さに無自覚に、開き直っていることだろう。多くの人間行為の取り返しのきかない深刻な問題は、反省のない開き直りから発している。そして、人間の反省は、自分の内面世界ではあくまでも言葉をベースにしている。言葉をそのまま外に出すか、他の手段を使うかの判断も、自分の内面世界では言葉がベースになっている。すべて、言葉とつながっている。「言葉なんかいらない」という言葉を発するというのは、”クレタ人が、「クレタ人は嘘つきである」と言っている。”と同じく、古代ギリシャから問題になっている自己言及のパラドックスであり、そういう言葉のアウトプットが、その人の内面を透かしているにすぎない。
 いずれにしろ、盲信、実践至上主義、論理至上主義にあぐらをかいていると、そこで停滞。その停滞を脱するには、疑問形から始まる言葉は必須で、最後に、その迷いの言葉を蹴って高く跳躍しなければいけない。古来から日本文化は、そこを目指していた。空海も、禅も、宮本武蔵もそう。そこまでいっている言葉無き写真と、ただの盲信(自己中)で言葉はいらないと言っている写真は、言葉なきことは同じであっても桁違い。

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