第993回 末法の世


 2011年3月11日から6年経った。
 このサイトには1000本を超える動画が、位置情報を特定して記録されている。
http://311movie.irides.tohoku.ac.jp/SearchPage?8
 このうちの1本を見るだけでも、自分の中の何かが崩れていくような気持ちになる。この震災で、被災者の方は当然そうだが、それ以外でも、理由はそれぞれだが、人生が変わってしまった人は、多くいるだろう。私もその1人だ。私は、東京から京都に移り住んだ。放射能が怖かったから移ったのではない。もちろん、放射能は不気味で怖かった。震災直後、何度も宮城県石巻や南三陸気仙沼に向かう時、福島のそばを通るだけでも恐ろしかった。
 しかし、東京を離れた理由は、東京が象徴する何かに耐えきれなくなったからだ。震災後から1年くらいは、東京でも自粛の雰囲気があり、街の電気は控えめになっていた。しかし、1年を過ぎたあたりから、震災のことなどまったく忘れてしまったかのように、姦しく、けばけばしい消費生活の活性化の声が大きくなっていった。とどめは、東京オリンピックの新国立競技場のデザイン案が、ザハ・ハディッドのものに決まったことだった。あの巨大で派手な、モンスターのような物を、東京のど真ん中に作ろうとしている。ノアの洪水の後、懲りずに人間が作り出したバビロンの塔のように。聖書が説くように、人間というのはそういうものなのだろうか。けっきょく、聖書に中の人間は、バビロンの塔を建設中に、互いの意思疎通ができなくなり、あっという間に、他者を思いやることなどできないソドムとゴモラの背徳の時代となり、それに怒った神が、空から硫黄を降り注ぎ、滅ぼしてしまう。
 アブラハムは、そんな時代に登場したが、仏陀のように自分の持っているものへの欲心や執着を絶っていった人間として描かれている。
 仏陀は、新しい叡智を創造したわけではなく、紀元前1800年くらいまで遡るとされるバラモン聖典ヴェーダの本質に立ち返ることで、仏教の教えを説いた。同じように、新約聖書の中のイエスキリストも、宗教を形骸化させてしまっていたユダヤ教徒達に、旧約聖書アブラハムのことを何度も引き合いに出して、教えを説いている。日本においても、仏陀の死後、1000年以上経った頃から、空海最澄など末法を意識する人々が出てきて、仏陀の教えが形だけになっていると警鐘を鳴らし、もう一度、原点に戻ったところから新しい仏教を説き始めた。
 人間はずっと、末法思想で説かれた内容のことを繰り返している。
 正しい教えを理解している人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても形だけのものとなる時代(像法)がきて、その次には人も世も最悪となる時代(末法)が来るという。その末法の時代に、もう一度、原点に帰ることを説く人が現れる。仏陀の時代も、キリストの時代も、末法だった。
 3.11の震災の後、原発事故の深刻な被害が残されたままなのに原発の再稼動の動きが出てきて、東京オリンピックという自分たちの足元を直視させない目眩ましに沸く状況で、新国立競技場のデザイン案を見た時、末法の時代だと思わざるを得なかった。東京にいると、その空気に巻き込まれて、流されて、大事なことがわからなくなってしまうと恐ろしくなった。
 東京にいると、今この瞬間のことしか見えなくなっていた。もっと長い時間を見渡さないと、自分が末法のど真ん中にいることがわからなくなる。
 京都に移って、今と過去の両方を見渡せるようにと心がければ、具体的に、それができる。京都では、現在と過去、異なる速度の時間が同時に流れている。それを感じることが何につながっていくのかわからない。
 しかし、少なくとも、意識や、物の見方は変わるだろう。
 私たちは、自分が立っているところから世界を見ているから、自分が世界の中心にいるという感覚があり、目を開いていれば、世界の動きが見え、その世界はわりと安定しているかのような錯覚に陥る。
 しかし、この津波の映像を見てもわかるように、私たちの世界を俯瞰すると、人間も自動車も建物も、なんと小さく、なんと軽く、なんと脆いものか。
 2001年9.11の時、飛行機がぶつかって崩れ落ちる超高層ビルの映像を見ている時もそうだったが、起こっていることが夢を見ているような感覚になるのは、自分の意識が作り上げている現実が、そういう事実を排除しているからだろう。
 自分が就職した大企業が、事業に失敗したり不正を働いたり、倒産の危機に直面している時も、きっと夢を見ているような感覚になると思う。
 起こっている事実を見てみぬふりをしたり、本当のことを知らない方が、気持ちは楽になれる。でも、その皺寄せは、いつか必ず来る。