生きていることじたいが奇跡と感じられる瞬間

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 齋藤亮一さんの写真は、生きている場所とか時代に関係ない、人間の普遍的な営みに焦点を当てたものになっている。
 たとえば、セバスチャン・サルガドが撮った人間の写真は、善悪の狭間で喘ぎながら究極において”神の審判”に委ねるキリスト教世界の至高の表現であるのに対し、齋藤さんの作品には、人間界の悲喜こもごもを静かに受容する東洋の慈愛が秘められている。
 齋藤さんは、バルカン半島、ロシア、キューバなど、旧共産圏の国々の写真を数多く撮影してきた。最近では、フンザ、そしてインドの写真集。また、昨年の3.11の震災直後、日本中が沈鬱な雰囲気に包まれている状況下で、「佳き日」をテーマに、日本の各地の”はれ”の日の情景を小さな写真集で発表した。青森県八戸えんぶりから香川県の中山農村歌舞伎まで、全国の祭りや民間行事、そして花見の場面を丹念に撮影したものであり、それらの中には、かまくら秋田県)、みちのく芸能祭り(岩手県)など、東北地方で撮影された写真も多く掲載されている。

 斎藤さんは、地球上のどこに行っても、人々の何気ない日常を撮影してきた。
 発展途上国とか共産圏とかに関係なく、どこに行っても人間は一生懸命に働き、食べ、語らい、遊び、学び、憩う。そして、どこに行っても、生きていく上で困難な出来事が起こる。天災、戦争といった大規模な災難だけではなく、家族の病死や事故死による哀しみに突然襲われることもある。

 人間はいつか必ず死ぬ。その宿命から逃れることはできない。近代文明において、死は不吉とされる。だから、多くの人は、自分と死が無関係であるかのように振る舞い、死が身近に感じられるような出来事があると、ショックを受けたり、パニックに陥ったりする。
 しかし、死を知るからこそ、生の有難味は増すわけであり、どちらか一方を切り離すことなどできない。
 現在の大衆メディアは、何か事件が起こると、たちまちそれ一色に染まってしまう。昨年の震災後は、毎日毎日、沈鬱なACジャパンの広告が大量に流されていたが、人々が震災のことを少し忘れてきた様子になると、すぐに以前のように、賑々しく、大仰で下卑た笑いがあふれる番組ばかりに染まってしまった。
 震災直後だからこそ、斎藤さんの「佳き日」のように、人間が長年続けてきたあたり前の営みが新鮮であり、そこに写しだされている何気ない瞬間が、とても大切で愛おしく思えた。
 現在の大衆メディアが提示する娯楽は、刹那的で、悲しさや苦しみを遠ざけ、憂さを晴らし、退屈をしのぎ、今この一瞬を消化するためのように感じられるが、斎藤さんの「佳き日」は、今この一瞬に対する愛惜がこめられている。 哀しみも苦しみも引き受けているからこそ、この一瞬を生きる上で大事にすべきものがよりいっそう輝くのだ。
 人間は愚かではない。愚かでない人間が、長い間継続してきたこととは、それだけでも真理を反映している。なのに現代人は、そうした時間の蓄積を否定し、新しく現れたものに価値を置きすぎた。新しいものは時間による淘汰を受けておらず、不確かなものというあたり前のことを見失っている。その一点こそが愚かなのだ。
  齋藤さんは、今日の社会がつくり出す一過性のフォーマットとは距離を置いたポジションに構えることで見えてくる人間の魅力を、寡黙であるけれど力強く写真に反映させてきた。
 どんな環境であれ、人間の営みには、それが成立していることじたいの奇跡を強く感じさせる瞬間がある。
 大量の物やお金を持っていたり高い地位についている人でも、感覚が鈍麻し、日々の営みに倦み、幸福を感じていない人がいるが、本当の意味で幸福な人とは、生きていることを奇跡だと感じられる人だろうと思う。

 この写真は、風の旅人の24号で紹介→http://www.kazetabi.com/bn/24.html