原発問題に対する私の考え方1

 原発全部止まったけれど電気は足りる、だから原発はいらない、という反原発は賛同できない。そもそもオイルショック等の中近東の不安定で、いつ石油の供給がストップするかわからないという危機意識が原発依存を促進させた。電気が足りるから原発はいらないではなく、足りなくてもいらないと言わないと話にならない。
 原発の安全性云々という言い方での反原発も賛同できない。交通事故で亡くなったり後遺症で苦しんでいる人は、この10年で10万人を超えている。だからといって、車をなくせとは誰も言わない。放射能は見えないから恐いという人がいるが、暴走車にはねられた人も同じだ。電気が足りるかどうかとか、安全かどうかという議論は、けっきょく自分にとってどちらが都合がいいかというなってしまう。とすれば、電気が足らず、生活が不便になり、失業が増え、自分の子供が就職できない、それでもいいですか、と突きつけられた時でさえ、自分の信念を貫き通せるのか、疑問が残る。
 原発に賛成かどうかは、安全性とか、電気の需要とか、原発の動向に関係なく、今日的生活が維持できるかのような錯覚のなかでの議論ではなく、生存への覚悟のうえで行われなければ、話にならない。つまり、原発を動かすのならば、自分の住処が福島のようになる可能性があっても生きていく為に仕方ないと思えるかどうか。(津波だけが不安要因ではないから)。原発を止めるのであれば、今の快適で便利な生活ができないようになり、さらに自分の子供が日本で就職できなくても仕方ないと思えるかどうか。日本の産業界が、原発推進を主張しているというのは、利権など単純なことだけが原因とは思えず、電力供給が不安定になるのは経営リスクが大きいから海外に工場などを移転するという発想とつながっている筈。それを企業のエゴと責めることは意味がない。企業も生き残りの為に必死なのだから。
 だから、原発は反対、企業が海外に出ていくのも反対、就職難になるのも厭、政府が何とかせい、という手前かってな論調での原発反対は、単なる空疎な騒ぎにしかならないと思う。原発に反対するのは、たとえそうした生活困難になっても構わない、という覚悟を伴ったものでなければ意味ない。
 さらに今日まで自分の快適な生活のために原発依存をしてきたのに、突然、原発をボロカスに言って、原発関連の技術者を苦境に陥れて、優秀な人が誰も原発関連の研究その他に関われなくなる状態になると、今後の廃炉や使用済み核燃料の処置はどうなる。その身勝手さこそが、子供達の未来へのしわ寄せになる。
 それらのことを十分に考えたうえで、生存への覚悟をもったうえで、私は、原発に反対する。その理由は、使用済み核燃料を処分する場所も、方法も、現状では行き詰まっているからだ。六ヶ所村には、もう持っていけない。核燃料サイクルは、もんじゅの状態を見てもわかるとおり見通しが立たないし、コンプリートガチャのように(つまり、今やめてしまったら、今までの投資がパーという心境につけ込んだゲーム)、お金がかかるばかり。六ヶ所村もダメ、核燃料サイクルもダメで、福島四号機のように、全国の原発の簡易なプールに、危険な使用済み核燃料が残されているわけだが、それを、これ以上増やしてまで守らなければならない我々の生活とは何なのだ、そこまでして守っている我々の生活が幸福なのかという思いが私にはある。
全ての日本人が、急にできることとは思えないけれど、今よりも、素かもしれないけれど、楽しく充実した生活というものがある筈。何が入っているかわからない大量生産の加工品よりも、自分の手で作った味噌があまりにもおいしく、それ一つで食生活がガラリと変わってしまうこともある。
 人よりも数多く高級な物を持っていることが誇りの時代もあったが、そういうのはカッコ悪いという感じになってきて、友人達と、物や空間をシェアしながら、エネルギーやコストの選択と集中ができる方が、スマートと思われるようになってきている。脱原発というのは、そうした生活全般の改革とセットだ。