原発問題に関する私の考え方2

 昨年の震災が起こった時、原発がなくなることは間違いないと思った。電力会社じたいが、もはや原発なんかやってられない、という気分になっているだろうと思った。だって、どんなに対策を練ったとしても一度でも事故があると会社が終わってしまうことを、マトモな経営者はできやしない。しかし、実際にはそうはならず、電力会社じたいが原発をやると言い始めた。50年前、原発を始めた時も、莫大な投資を必要としてリスクも大きな原発を、電力会社単独の意思で決められる筈はなかったと思う。国家の意思として、原発をヤレ、後方支援するから、と言われているに違いないと思う。つまり今も、電力会社単体の意思ではなく、原発を無くすことで国が立ち行かなくなると、国家の意思がそう判断し実行しようとしているのだろうと思う。
 国家の意思は、原子力村とか官僚とか、一部の組織だけの問題ではない。仮に経済が立ち行かなくなることがあっても原発はいらないとまで国全体が覚悟を持てていないから原発を動かす準備が進められる。原発に関しては、いい所取り、という都合の良い判断はあり得ないのかもしれない。「危ない原発はいらない。でも今の生活も維持したい。生活に不安が残るのはごめん」というわけにはいかないのかもしれない。相当な覚悟をもって、反対か、賛成か、考えるべき問題。ただ一つ気をつけなければいけないのは、”今の状態を維持”という選択は、今の状態を穏やかに維持することにつながらないこと。資本主義経済において、今の状態を維持する為には、次々と新製品を作り出すなど無駄も多く作り出すことが前提。だから今の状態を維持しているだけでも、歪みが大きくなる。日本国は、経済を保つために、10年以上、莫大な資金を投入し借金を背負いこみつづけた。結果として、大して成長はせず、維持していただけ。
 今の生活や日本の経済を維持するためにという論法で原発を受け入れることは、間違いなく歪みを先送りしていくことにつながる。実際にそういう先送りによって、この数十年間が費やされたのだと思う。そしてその歪みを一挙に断ち切る策が核燃料サイクルだったからこそ、そこに莫大なお金が使われた。様々な歪みを一挙に断ち切る策がある、それが核燃料サイクルだ、という発想があったからこそ、歪み(核のゴミその他)が生じるのを承知で、原発を作り続けた。その核燃料サイクルじたいが、原発そのものより圧倒的に危険な存在であるという認識に立ったうえで、その策を進めることができるのかどうか。原発か日本の経済かという選択肢だけなら、原発の安全性を一生懸命に説かれているうちに、経済はやはり大事だから仕方ないかという雰囲気になる可能性がある。核燃料サイクルの研究に費やされる莫大なコスト、一度でも大事故があれば一つの県だけでなく国が滅ぶリスク。天秤には常にそれらも乗せるべきであるが。福島原発の事故についても、現在もまだ深刻な問題となっている4号機と3号機は核燃料サイクルがらみの問題。4号機には使用済み核燃料が莫大に残されているし、大爆発した3号機は、使用済み核燃料を再処理したプルトニウムを使ったプルサーマルもんじゅが爆発すれば、プルサーマルの比ではない。現在、お祭り騒ぎのように反原発を繰り返している人は、原発を停止させれば目的を達するかのような目先の感情論に走っている。しかし、より重要なことは、これから何十年も、優秀な研究者や技術者が、原発関連の仕事に残って、廃炉や使用済み核燃料の処理の方法を考えていくこと。だから原発関連の仕事が非常にやりずらい空気を作るような騒ぎ方には、不安を覚える。原発は憎い敵だから反対!という主張はあまりにも自分勝手。これまでの生活に貢献してくれて有り難う、でもこれからは別の生き方をする覚悟ができているので不要、でも引き続き核のゴミの処理が必要なので、その対策を一緒に考えていきますと言わねば。「難しい事はわからなくてよく、軽い気持ちで脱原発という人達をどんだけ巻き込めるかが勝負」とか、「 反原発脱原発に理由は必要ない、一人でも賛同者を増やして大きなムーブメントにするべき」と言ってくる人がいるが、原発を拡げたり、もしかしたら戦争に発展させたスタンスも、似たようなもの。そもそも、軽いノリでもいいから数を集めればいいという発想は正しいのだろうか。そのノリは、原発が支えていた消費経済の価値構造どっぷりではないのか。
 浮動層の数は、小泉改革のようにぶっ壊すことにおいて力を発揮するかもしれない。しかし、そこから新しい思想や価値観が立ちあがるわけではない。とにかく、ぶっ壊しさえすれば、後は誰かが適当に考えるだろうという発想を多くの人が持っているから、その後が、グチャグチャになる。グチャグチャになった時の方が、恐ろしいことは、歴史的にはよく見られること。覚悟のない反対とか、大きなムーブメントなんか、私は信用できない。
 でも、原発利権と税金の無駄があることも間違いない。ある電力会社の広報誌を年に二回出している人が一回で5000万円の制作費だと言っていた。風の旅人の10倍だ。質もさほどいいと思えず、ノーベル賞をとった有名科学者のインタビューで権威付をしていた。電力界者を相手にすると楽に稼げるのは、電力会社自体が、楽に稼いでいるからなのは間違いない。自分がシビアに稼いでいると、どうしても、取引先に対してもシビアになるもの。
 「難しい事はわからなくてよく、軽い気持ちで人をどんだけ巻き込んで大きなムーブメントにするべき」という発想に大いに疑問があるのは、そういう安易なスタンスは誰かに上手に利用されやすく、上手に利用する人が別の利権を手にするようになっていて、そのことに無自覚なのが腹立たしいからだ。
 私が「風の旅人」を復刊させようと思っているのは、そのあたりのことを問い直したいという気持ちがあるから。つまり生存の覚悟の問題。復刊のprincipleやbeliefは、それしかない。ロールシャハテストで黒の部分から白の部分への意識が転換する僅かな可能性。そこに向かって具体的な球を投げること。原発の危険性、代替えエネルギー、大勢の普通の市民の意思表示といったことは、私にもわかる。しかし闘いの土俵がそこだから、推進派は、いかに安全性を確保したとか、代替えエネルギーはまだ不十分とか、同じ土俵で正論を繰り出してくる。生活変えますから原発いりませんという運動にならないとダメだと思う。
 反対するのも賛成するのも、押しつけられたり、ムードに流されたりではなく、覚悟をもって自ら選び取らないと、後で、それが悩みの種になったりするのは、人生ではよくあること。結果がどうあれ、自ら選び取ったことだと潔く思えれば、悩みにはならない。どちらが正しいかではなく、選び方が大事だ。
 2,30年後に原発全廃という利口な考えは、政府内でも現実的対応として考えられている手だろう。でも私は、30年後に生存しているかわからない我々が表明する案ではないと思う。去り行く世代は、欺瞞の多い現実的妥協策ではなく、後に受け継がれるような理念を残すべきだと思うからだ。昔の人は、数十年後の子孫のために樹木を植えた。単に樹木を残したということではなく、人生は自分の中だけで閉じて終わるのではないという理念を、樹木を通じて伝え残した。原発を残すということは、自分の生活のために後のことは関係ないという狡さの正当性を、後の世代に伝え残すことになる。
  たとえば子供にとって何が一番悲しいかと言うと、貧しさとかではなく、親の卑小さを見せつけられ、親に敬意を抱けない状態だ。大人が醜いことが子供の最大の苦痛。
 どんなに貧しくても、親を尊敬できる子供の心は健やかだし、それこそ親の背中を見て頑張って生きていこうという力を得ていると思う。どんなに物質的に満たされていても、親の醜さを見せつけられている子供は、悲しみのあまり歪んでいくし、生きる気力そのものを殺がれ、どこかで投げやりになる。 
 理念なくして、人間は、もはや亡霊ですらない。理念が解決するのではなく、解決は、理念の後からついてくるもの。理念という言い方をすると、わかりにくくなるが、ようするに、人として生まれ、いずれ死ぬことがわかっている状態で、悔いを残さない為に、どう生きて死ぬかという腹づもりを定めること。
 再稼働をさせて時を稼いだ方が利口と、ちょっと利口なら誰でも言いそうなことも十分わかる。でも、そうした利口とか現実的という頭の中で作る論は、感情的反対が主張する”危険”を説得できるものではない。また一方、難しいことはわからなくてもいいから数集めろ的な反対や、安易に代替えエネルギーのことを言う反対は、現在の生活が維持できるという楽観的期待が強いだけで日本経済が混乱する可能性を想定していないから、もし原発を止めることで新たな問題が生じると、またパニックになる可能性がある。けっきょく、どちらも生存に対する覚悟の部分は横に置き、頭と感情だけの対立になっている。しかし感情的反対の人も別のところでは利口さもあって、原発の再稼働を強く望む大企業連合に子供が就職できた方が安心と思っていたりする。原発再稼働が利口と言う人は、事故が100%ないことが前提。賛成も反対も、自分に都合の良い方へと考える”いい所取り”でしかない。
 100%安全は日本という天災国ではありえない。原発の分布は全国で、そのうちどこか一カ所でも何かあれば、福島が二カ所になれば、どうしようもない。原発を無くして現在の生活を維持というのも、複合的な理由で、ありえない。では、どちらの最悪が、それこそ最悪なのか考えると、さらに福島のような状況が生じること。ならば、現在の生活は維持できないことを前提に、いろいろ混乱が生じることを前提に、それを覚悟して、原発を止めるしかない。脅しでも何でもなく、その覚悟を持ってくださいと、国民に問わなければならない。でも、そういう問われ方をされると、いやいやそうならないようにオマエが考えろよ、何とかしろよ、と多くの人が言うのかもしれない。そういう言い方しかできない人が大半だろうと想定しているから、そう言わずに、色々ごまかした言い方をせざるをえないのだろう。
 原発問題は、経済とか安心生活といった、これまでの社会や生活環境の中の価値基軸だけをもとに、計れないし、解決できない問題なのだと思う。それらとは別の価値基軸の創造が必要だし、少しでも情報発信や表現に携わっている者は、そのことを自覚して、そこに向かってボールを投げるしかないと思う。表現や情報の発信に関わっている者が、そのことに無自覚に、これまでの社会の中の価値基軸にすぎない経済や安心生活の延長ででしかボールを投げないと、その二つの分断幅が広がるばかりで、どちらの声の方が大きいかの勝負になり、だからお祭り的な反対を指向するようになる。
 これまでは、経済の発展と安心生活は一体だと考えられていたから、両者の分断はおきにくかった。経済格差が生じても、全体のパイを底上げすることが貧者を救うという、経済上位に都合の良い思想も、経済上位と関わりの深いメディアによって、浸透させられていた。
 経済発展と安心生活は一体ではないことを突きつけているのが原発問題であり、この問題の解き方を考える新しい思考と、新しい気持ちの持ち方と、生き方の見直しに関する言論にしか、今は興味が持てない。既にわかりきっている現実論や感情論は、説教されても、それがどうしたとしか言いようがない。