祈りの大地

Genpatsu(撮影:石川梵 2011年3月12日 白煙をあげる福島第一原発


 写真家、石川梵さんの文章だけの本『祈りの大地』が発行された。2、3日前に、大阪写真月間で行なわれた鬼海弘雄さんのトークを聞き、写真というものは写真家の生き様が反映されるものであって、その生き様は、写真家の思考のプロセスである言葉にも現われるということを強く感じたばかりだけど、この「祈りの大地」もまた、写真家石川梵さんの生き様と思考が凝縮した本だ。

 さらに言うならば、この『祈りの大地』は、写真家の生き様と思考(言葉)が豊かで魅力的であるからこそ、その人の写真も豊かで魅力的なものになることの証となっている。
 「自分は写真家だから写真で勝負する。言葉なんて関係ない」という言い方は、一面では真実であり、アウトプットされる写真が魅力的でなければ何にもならない。しかし、魅力的な写真の背後には、写真家の豊かな”言葉”(思考)が隠れているということもまた真実であり、発せられる言葉(思考)が貧弱だと、だいたいにおいて写真も貧弱になるのは否めない。
 今回、石川さんが、敢えて言葉だけの本を出版した背景には何があるのか。
 石川さんは、この本の後書きで、以下のように述べている。
 「私の震災体験は、あくまで取材者としての立場からにすぎないが、それでも現場の様々な体験が、私がこれまで重ねてきた祈りの取材や、私自身の歩んできた人生と重なった。本書を書くという行為は、もう一度、それらを整理し、見つめ直し、震災が自分に発した問いかけについて、さらに深く考える作業だったと言ってもいい。」
 2011年3月11日の東北大震災は、私たちに大きなショックを与えた。そして、被災地の復興、原発問題は、引き続き、大きな課題として目の前に横たわっている。
 東北だけではなく、我々はこれからどう生きていくべきであるのかという大きな問いが、投げかけられたのだ。
 震災から一年経ち、二年経ち、時の流れとともに、その大きな問いは希薄化していっているようにも感じられるが、被災地の為に、様々な角度から取り組んでいる多くの人達の中には、自分自身の生き方の問題として、今回の災害を受け止めている人も少なからず存在すると思う。
 獣のように強力な牙も毛皮ももたず、水中や空中を自在に動き回る能力も持たない人間には、知識や智慧があるかもしれないが、そうしたものは、津波地震などの前には無力であり、人間は、これまでの歴史で、そうしたことを幾度も思い知らされてきた。
 しかし、何度、挫折しようとも、また一から新しく始めることができるのも人間の能力であり、絶望の淵から始める為には、無慈悲な運命を受け入れる心の力も必要になる。そうした心の力を養うために、人間は、神とか祈りという”智慧”も生み出した。
 石川さんの新著『祈りの大地』は、思春期の頃からの自分の人生と、主に祈りがテーマの中心にある写真家としての軌跡と、3.11の直後から何度も東北の被災地に足を運びながら、人と出会い、向き合い、語り合った体験が、折り重なるように構成されている。
 そして、その全体を貫いているのは、葛藤や挫折を繰り返しながら積み重ねてきた石川さんの生き様である。
 石川さんは、中学校を卒業してすぐ、プロの棋士になることを目指して、単身で大分から東京に出る。女手一つで三人の子供を育ててくれた母親に対して申し訳ないという気持ちと、自分の生き方を自分自身で選択して歩んでいこうとする子供を信じて東京に送り出してくれる母親の愛を心にしっかりと感じながら、独立した人間として一歩を踏み出す。このあたりのくだりは、写真家として個性的な活動を続けてきた石川梵の魂の根っこを見るようで、とても興味深い。
 その後、石川さんは、プロの棋士になることを諦め、写真家を志すことになるのだが、常に志が高いし、アプローチする対象のスケールが大きいので、困難もまた大きい。
 しかし、自分が何度でも困難に直面することで、人間がなぜそこまでしてチャレンジし続けるのかということや、挫折しても立ち直れるのかということを、身をもって学んでいく。
 ”祈り”というのは、自分の救援を求める心理だけではなく、切実に何かを求める気持ちでもあり、その切実さの根底には、自分はなぜ生きているのか、どう生きていくべきなのかという人間ならではの問いが横たわっている。
 石川さんは、将棋の道に挫折した後、プロの写真家になることを目指し、戦火のアフガニスタンを取材する。荒廃する国土、至るところに地雷が仕掛けられ、いつ空から爆弾が落ちてきたり、至近距離から狙いを定めて射撃する戦闘ヘリの餌食になるかわからない状況の中で、アフガンの戦士達の信仰の力を、まざまざと見せつけられ、信仰について考えずにはいられなくなる。

 そして、一人の死を共同体の体験としながら一族の一体感を強めていく為に壮大な葬式を行なうインドネシアのトラジャ族(風の旅人の第15号で紹介)、死を覚悟して銛一本で鯨に立ち向かい、射止めた鯨一頭を村人全員で分け合うインドネシアのラマレラ村(風の旅人の第10号で紹介)、標高5000メートルの厳寒の氷河で神に祈るペルーのインディオ、インドで世俗の全てを捨て去って修行をし人々の尊敬を受けているサドゥを取材をしながら、死から逃れることができない人間が何を生の拠り所にしていくのかということを深く考えていく。

 さらに無宗教と言われる日本人の精神の拠り所に思いを馳せ、伊勢神宮の神域にも潜入していく。こうした自らの人生の軌跡と、東北大震災の被災地の取材を重ねながら、石川さんは、ただ被災地の現状をニュースとして伝えるだけではなく、「我々は、いかに生きていくのか」という問いを、自分自身に発しながら、写真や文章の表現としてアウトプットしていく。
 我々というのは、大震災に見舞われた東北の人々だけを指すのではない。日本人全体、そして、人間として生まれた世界中の人間全体を指している。
 人間として生きているかぎり、誰でも、無慈悲な運命によって、自らの無力を思い知らされることを避けることはできない。それでも、生きるに値する命、何ものかに生かされている命というものを感じる瞬間が私たちにはある。そうした命そのものの謎に深く向き合い続ける仕事、それが石川さんが目指してきた道であり、生き様そのものなのだろう。普遍であり、根元であり、2000年前も、おそらく2000年後も変わらない人間のテーマだ。
 現代という、人類史のなかで極めて特殊な時代を生きていると、現代の思考の枠組みの中だけで物事を捉え、解決の道を探ろうとしてしまうことがある。
 しかし、現代は、人類の長い歴史のほんの一部であり、人間の智慧は、この期間の思考の癖だけで計れるものではない。
 写真は、真を写すもの。ならば、現代の現象の表層だけを写しとって、それを”真”だと主張するのは傲慢すぎる。
 真に迫ろうとするならば、人類や世界全体を見渡し、ここぞと狙いを定めて細部に分け入って、少々の困難に挫けず何度でもやり直し、しつこくトライし続け、そのたびに、何の為にそんなことをするのかという人間的な問いの前で立ち止まりながら、人間だからそういう試みをし続けるしかないという諦観を前進力とし、その上で、自分が求めている”真”こそが生きることの拠り所になるのだという信念を、形にしていくしかないだろう。
 石川さんは、3.11の震災について深く考えることが、自分自身の歩んできた人生と別のことではないという自覚のもと、「祈りの大地」という本を作り上げた。
 この本を読む者もまた、3.11の震災について深く考えることが、自分自身の人生や、これからの世界の在り方を考えることと別のことではないということを、本を読み進めながら感じとっていくのではないだろうか。
 



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