写真についての呟き ?

?写真を志す若い人達から展覧会のDM等をいただく。感性をうたっているけれど、なんだか理屈っぽいなあという印象を受ける。人間、考えることから自由になって感性だけの存在になることなんかできない。中途半端に考えているから理屈っぽくなる。徹底的に考えているものは、理屈を突き抜けている。

?写真を志す若い人で、写真は感覚で撮ればよくて、思考は必要ないと思っている人が多い。でも、人間の感覚は、メディアや教育等の言語的影響を受けており、自分のものだと思っている感覚が、実は、他人から刷り込まれたり洗脳されているだけの場合がある。その状態から脱するプロセスで、思考は必要。



?理屈抜きに感覚で撮りました等と胸を張って言う人間の写真は、だいたい、どこかで見たことのあるようなものが多い。他人の写真を見て学習することすらしない人達だから、自分では人真似などしていないつもり。それでもステレオタイプになってしまうのは、社会から刷り込まれた感覚に無自覚だから。



?未来の展望が見えにくい状況の中で記号的言語が跋扈し、複雑化していく社会で、写真は、言語的な思考が辿りつけるポイントの、さらなる先の思考を具現化する力がある。その力こそが、今、写真に求められるものであり、写真が未来につながる道。なのに多くの写真は、記号的言語の僕に成り下がっている。



?記号的言語の僕というのは、例えば、評論家に、”今日風”とか”時代の空気”などと、思考力の無さを露呈した評論で評価され、そのように評価されることを喜ぶこと。大衆メディアがバックについた賞や、様々な経歴(個展歴など)などで飾り立て、作品に価値があるかのように演出すること。



 ?社会的使命という言葉は、非常に使いにくい時代ではあるが、写真に社会的使命があると考えている写真家はどれだけいるだろう。使命といっても、戦争の修羅場を見せつけて正義を主張する類ではない。そうした既存の価値観の枠組みの中の正悪や優劣ではなく、新たな価値観を垣間見せる写真、という使命。





 ?言語的差異を超えて人々の心の深いところに届き、言語的思考の先の思考を指し示す可能性のある写真。様々な価値言語で分断された社会で、改めて、写真の力の可能性について考える日々。写真の力をフルに生かして、現代の曼荼羅を描き出したい、描き出せるのではないかという思いが自分の中にある。

?多くの人は無自覚だが、現代人は、映像によって価値観を歪められている。コマーシャル映像やテレビ映像は、人々に、あたかもそうでなくてはならないようなイメージを刷りこんでくる。”豊かな暮らし”、”憧れの存在”、”カッコいい人生”など、その一例。本来どうあるべきかということとは関係ない映像が、人々の心を弄ぶ。



?いわゆる人気写真家などというのも、本来どうあるべきかということと関係なく、コマーシャルやテレビ的価値にうまく便乗して自己演出するのが上手いだけの者が多く、映像の弊害をさらに増幅させている。映像に関わりながら、映像の魂を売ってしまい、自分を飾り立てる道具にしている輩はとても多い。





?写真の魂を売り、自分を飾り立てる道具にしている人の写真は、すぐにわかる。一言で言うと、魂を売ってしまっているから、魂に響いてこない。色とか構図とか状況設定とか、頭でっかちのゴタクを前面に押し出して、先端を気取っているが、何度も見たくなるほど、引き込まれない。

?人類は”存在”について言語を用いてさんざん哲学してきた。”存在”を哲学するというのは、ただそこに在ることを証明するのではなく、生きてそこに在るということが充分な納得感を伴って伝えられることだと思うが、言語的思考では届きにくいその領域を、写真で指し示すことができるのではないか。