暮らしの美しさは、何処に・・・

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 この写真は、次号で紹介する広川泰士さんの写真。富山県の南砺というところ。合掌造り集落があり、衣食住に伝統的な暮らしが息づいている、とっても素晴らしい場所。雪が深くて大変なところだけれど、一つの空間として、存在自体が美しい。
 現在の日本は、郊外に画一的なショッピングモールが進出したりしているが、利便性を優先した空間で、美しいと感じられるところはあまりない。なぜなんだろう。
 この100年ですっかり失われてしまったことは、生活それ自体の美しさ。使い込んだものの美しさ。ファッショナブルな物は増えたかもしれないけれど、心底、美しいと感じるものはあまりない。だから、すぐに飽きてしまう。流行のファッションで飾り立てた女の子達が、「可愛いー」とか言いながら、ダラダラ歩いている光景は、まったく美しくない。美しさは、姿勢や動作や、ちょっとした表情に凝縮しているものだけど、飾り立てるほど、それらが醜くなっている。
 広川さんは、日本の桃源郷のようなところと、破壊の著しい現場を撮影している。今この瞬間の日本に、その二つが同居している。日本は、その二つに引き裂かれた状況の中から、次の時代をどのように作っていくべきか真剣に考えなければならない時にきている。愛国とか、道徳教育とか、言葉のうえで、日本の伝統を大事にすべきだと声高に唱える人が増えてきているが、しっかりと見定めなければならないのは、言葉そのものはどうでもよく、言っていることや行っていることが、しみじみと、心に染み込むように美しいと感じられるかどうかだ。
 美しくない表情と動作と、言葉の使い方で、「日本の伝統」とかを大声でがなり立てるものは、胡散臭さが漂う。本当の意味で、日本が世界に誇る文化というものがあるとすれば、それは、大きな声でアピールする必要なんてまったくなく、その存在自体が、今の粗雑な自分の在り方に対して、静かに反省を促すような力がある。その粗雑さというのは、世界や生命に対して、どこか傲慢になり、無神経になり、疎かにしているということ。

 世界や生命に対する無神経さというのは、実は、自分自身に対する無神経さともつながっていて、結果的にそれが、自分自身を荒廃させる。いくらたくさんの物に囲まれていても、生活が美しくならず、逆に荒廃していっているように感じてしまうのは、その為だろう。本当の意味で自分を大切にするとはどういうことか。そのことを考えない大人が、子供を大切にしているなどと言えやしない。

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