1月29日(土)に、京都でトークショーを行います。
京都シネマ・スクリーン・ギャラリー マスノマサヒロの部
1月29日(土)18:00~20:00 ◆ゲストトーク/『風の旅人』編集長・佐伯剛
参加費1,000円。入場者には「風の旅人」40号を進呈いたします。
京都シネマ
京都市下京区烏丸通四条下る西側 COCON 烏丸 3F TEL : 075 (353) 4723
アクセス
お相手は、写真家のマスノマサヒロさん。
マスノさんとは、昨年の10月、一緒に白山に登った。昨年は様々な所を訪れたが、なかでも白山は、非常に印象的だった。
マスノさんは、日本各地の山々を征服する願望を持つ人ではなく、白山だけを集中的に何十回と登っている。
山を征服することが目的なのではない。訪れるごとに異なる山の様々な表情を通して、山の内実に少しでも近づいていこうとしている。
写真表現にしても同じだ。あちこちの場所を訪れ、パシャパシャとシャッターを切れば写真になると勘違いしている人が多いが、本人が思っているほど、それらの写真には何も写っていない。もしくは、その人でなくて他の誰が撮っても同じようなものが多い。
写真というのは、シャッター速度、露出、構図など、絵に比べれば極めて限られた要素で表現世界が構築されるにも関わらず、なにゆえに、その人ならではの特長が現れたり、そうでなかったりするのか。
私たちは、何かに視線を向けている時、“それを見ている”と思っている。また、何かを美しいと思う時、“自分がそれを美しいと感じている”と思っている。
テレビをはじめとする様々な影響で、「そういうものが美しいものだと感じさせられているだけかもしれない」とか、視界の中にある様々な物事の中から、「自分の中に既に出来上がっているイメージに優先的に焦点を当て、抜き出している可能性があるかもしれない」と疑わない人が多い。
そういう自分を疑わない人は、一つの場所を一度訪れただけでも、自分の既知のイメージを確認さえできればわかったつもりになるので、何度も何度も足を運ぶようなことはない。そんな暇があったら、他の場所を確認した方がいいという気分になるだろう。
それに対して、自分の目で見ている人は、視覚でとらえても認識が追い付いておらず、それがゆえに気になってしかたがないという状況になるので、わかったつもりにはなれない。だから何度でも足を運ぶ。写真を撮り、眼に入った物をいったん画像として定着させることで、自分の中に生じた感じ方を確認しようとする。そうした試行錯誤を繰り返さないと、陰に隠れたモノが見えてこない。見えないかぎり、そういうものは写真には出ない。写真というシンプルな構造の表現は、撮るという行為の前に、陰に隠れたものが見えるか見えないかで、その大半が決定されてしまう。シャッター時間は、たかが一秒。レンズが向けられる先の範囲は極めて限定的。すなわち、写真を撮る人間に関わってくる視覚情報の大半が、撮影行為を通じて、拾い上げられるのではなく、捨てられているのだから。
マスノさんは、何度も何度も白山に登る。そして、今、一番身近で見慣れている筈の家族を、何度も何度も撮り続けている。
見ているつもりで、実は見落としてしまっている可能性のあるものを、丁寧に拾い集めるように。知らず知らず先入観で決めつけてしまっているものを、根底から問い直していこうとするかのように。
こうした写真行為は、他者の発見を通じて、自分を発見することにつながる。自分のことはよくわかっているつもりでいても、実際には、自分の知らない自分が自分の中にいて、そうした自分は、世界との関係を通して姿を現す。
マスノさんは、写真を撮りながら、どんどん新しい自分を発見している。
自分というものを固定的に決めつけてしまう人は多い。その大勢が、自分を尺度にして自分に都合よく世界を切り取っていけば、結果として他の大勢と同じような写真になってしまうのは当然だ。
マスノさんは、自分を固定化しない。彼の素直さ、柔らかさ、世界に対する謙虚さが、少しずつではあるけれど、彼の写真に結実していく。人間なかなか変われないというが、マスノさんは、3年後、5年後、10年後にどうなっているのだろうと、とても楽しみに感じられる人。五六歳になって、このように変化していける人は、そうはいない。