子供の個性、現代アートの自家中毒

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 私は、個人的に、小3の息子が作った「漁船」が好きで、毎日、アート作品のように鑑賞している。のこぎりやトンカチを使って黙々と作ったもの。
 子供の作ったものは、下手なアートよりも、見ていて飽きない。
 なんか独特。ウチの子に限らず、子供の動きというのは、ほんと、どくとく。
 そういう独特さを、親とか先生が枠の中に入れてしまうんだろうな。

 でも息子の関心は、当然、アートなんかではなく、走る事。今日は、高校駅伝、正月は、箱根とか、実業団駅伝とか、いろいろあるので、兄弟で盛り上がっていて、どの選手がどうのこうの、速いの遅いの、毎日うるさい。
 夏のあいだ、帰宅してから、毎日のように、私も彼と一緒に走っていたけど、まったくかなわなかった。昨年くらいまでは勝てたけど、もう無理。
 しかも、私は、無理してつきあっているうちに、膝を痛めてしまった。情けない。
 息子の夢はオリンピック選手らしい。まあいいんじゃないの。

 20世紀は、人間を枠の中に入れて管理しようとした時代だけど、
 21世紀は、それだと人間が壊れてしまうと気づき、新たな在り方を模索する時代だろうな。
 でも、文部省が言っているような、”個性”とかじゃダメでしょ。
 ”個性的”であろうとして、人間が個性的になるのではなく、何事であれ、無心に、真剣に、打ち込むことで、独特のものが出てくるのだと思う。
 言葉から入るものは、何事も、頭のなかのつくりものであって、そんなものは、本当の事の、半分も満たしていない。
 子供が個性的なのは、一心に物事に取り込める余地が残っているから。
 何に役に立つとか、周りの人がどうのこうのとか、得だとか損だとか考え出したら、もうその時点で、枠に囚われてしまい、つまらないものになってしまう。
 現代アートのつまらなさは、広がりとか、深まりの可能性をまったく感じられないこと。自家中毒に陥って、自我の狭い枠組みばかり感じさせられること。
 もうそういうのは、どうでもいい。
 そろそろ20世紀の狭い思考の枠組みから抜け出さないとだめでしょ。

 時代がどうのこうの、社会がどうのこうの、というよりも前に、未来の可能性を、少しでも感じさせるものと出会いたい。

 可能性というのは、100%というものではなく、僅か5%でも1%でも充分なもの。最初の1%が、揺らぎながら、方向性を暗示しながら、少しずつそちらに向かって歩を進めることで現実化する。

 現代の矛盾の中にじっととどまって、未来の可能性の1%も感じさせないような、単なる自己主張の表現が、視界を曇らせている。

 いったんそういうものを全て、視界から取り除くと、けっこう触発されるものが、意外と自分のまわりにあったりするもの。

 それがたとえ子供の振る舞いであっても、生の本質を感じられる事がある。