ミームを超えて

 日郄敏隆さんの立ち位置というものを意識することがある。
 日高さんは動物行動学者であるが、その研究を通じて、人間を考えようとしている。
 動物と人間の間に立って、動物と人間の世界認識の仕方を研究しながら、人間が人間の世界認識の中で人間らしく生きるとはどういうことか、宗教の言葉ではなく科学の言葉で考えている。その日高さんに対して執筆依頼の手紙を書くことは、その号のテーマを深く考え、より明確にする作業になると私は思っている。

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 また、第15号の企画書と、掲載写真をお送りします。
 第15号のテーマは、「人間の命」です。死を認識してしまったことで、生きることも死ぬことも命として受け入れざるを得ない人間を、誌面を通じて表現したいと思います。
 誌面で紹介する写真家は、マグナム会員でフランスを代表する写真家、ジャン・ゴーミィの、「海の男」。大荒れの海で小舟のように揺れるトロール船で果敢に漁に勤しむ男達の、ふてぶてしく神々しいまでの姿。二番目の写真家が、中国人唯一のマグナム会員の李小明。中国の精神病院を撮影して中国当局に目をつけられている彼が、中国で迫害されながらも純粋に信仰を守り続けるキリスト教徒の真摯な生き様に迫ります。
 三番目が、石川梵さんのインドネシアスラウェシ島のタナトラジャの盛大な葬式。この地の人々は、生きている間、一生懸命働き、自分の葬式のためにお金をためます。
トラジャ人は葬式のために生きている、とまでいわれます。トラジャ人は来世を信じており、葬式は新しい人生への門出なのでしょう。こうした考えは、今日の合理的、科学的な思考からすれば迷信ということになるのかもしれませんが、はたしてそうなのでしょうか。私はむしろ、死を認識し、死に苦しめられる人間が、それでも前向きに生きていくために掴み取った深い智恵のような気がします。
 四番目が、今年、木村伊兵衛賞を受賞した中野正貴さんの、香港の不気味な色気を放つコンクリート都市のなかで、気丈に生きる人間たち。不確実な現実のなかで、打ちひしがれることなく、生きる輝きを保つ人間たちの赤裸の描写です。
 五番目が、新進気鋭ですが、硬派のドキュメントを撮る山田真。セバスチャン・サルガドも撮影したバングラデシュの船の解体現場で働く人間達を、サルガドとは異なり、シリアスなところは全然なく、嬉々とした感じで大らかに捉えています。サルガドは、そうした極限世界のなかの人間を崇高に撮ることで、地上の困難を表しながらも、それと向き合う人間の尊厳を描きますが、山田真は、どんな状況でさえ人間は柔軟に対応して生きていく不貞不貞しい生き物だということを示しているようでもあります。

 前置きが長くなりましたが、このたび、日高先生には、「生死の境を超え、ミームを残す残さないという分別を超えた、人間の命」という趣旨で書いていただけないものかと考えております。
 死を知った人間は、自分の生を意味あるものにするため、ミームを残そうとする。また、死んで無になる恐怖から逃れるために輪廻という概念をつくり出す。こうしたことについて、昨年の8月号の「人間の領域」で日高先生に触れていただきました。
 ただ、人間は、自分のミームをただ残せばいいのではなく、より素晴らしく価値あるものを残したい志向性がありますし、輪廻にしても、よりよく生まれ変わりたい志向性があります。
 つまり、ミームや輪廻という概念そのものが大事なのではなく、ミームや輪廻を通して、より精神的に価値あるイリュージョンを志向することも可能であるということです。
 物を何も残さず、良き生まれ変わりを期待するわけでもなく、純粋な信仰に自分を託して生きて死んでいく人がいます。危険な現場で、たとえ貧しく報いが少なくとも、精一杯生きて死んでいく人もいます。 自分の葬式で、それまでの蓄財の全てを蕩尽することに意義を感じている人がいます。何かを残すのではなく、むしろ何も残さないことにこそ価値を見出すイリュージョンが、人間世界にはあります。
 こうした人々を見ると、肉体の生死とは別に、またミームという形あるものを残すという概念とは別に、魂とか精神という形無きものに価値を見出すイリュージョンによって、生死の境を超えていけるのではないかとも考えたりします。
 日高先生は、昨年の8月号で、自分の作品、仕事、名、いうなれば自分の存在したことの証であるミームを残したいという美学から芸術が生まれるとともに、戦争などの不幸が起こっていることも指摘され、その人間独自の「生きる論理」の矛盾に言及されました。しかし、ミームを超えるイリュージョンが人間にはあり、それは、「生死の境を超え、また存在の証を残す残さないという分別を超えた、人間の命」と言うべきものではないかと思います。
 ここらあたりを、ぜひとも日高先生に論じていただければと思います。
 毎回、難問で申し訳ございません。しかし、現在の人間社会の様々な困難を超えていくためには、古いパラダイムの転換=新たなイリュージョンの構築が必要です。その原因の一つである科学的合理主義の思考を批判するような宗教的な訓辞を述べるのではなく、従来の科学的思考を超えていこうとする新しい科学の言葉で論じることに意味があるのだと思い、私は日高先生にお願いしております。
 どうぞよろしくお願い致します。