方程式による証明!?

研究者さま

現在、科学者は、宇宙の様々な現象を統一する一つの方程式をつくることはできていません。

 だから、一つの方程式によって、宇宙の現象を説明して、”以上で証明終わり”にはならない。方程式が存在しているのは、あくまでも閉鎖系の中だけのことです。しかし、各閉鎖系のなかにいると、その方程式が絶対になってしまうことがある。知識の罠はここにある。しかし、冷静になればわかることですが、技術の発達によって、地球の中だけで完結する視点は捨てなくてはならないほど、様々な現象がもたらされ、人々の視野が広がっている。

 今は、地球のことを考えるうえでも、同時に太陽系のことや宇宙のことを考えなければならない時代です。特に、一般の人以上に専門知識を持っている科学者は、なおさらそういう意識にならないと、考え方が偏ってしまうのではないかと思います。

 そのように冷静に考えると、現時点において宇宙の統一法則はないということが前提ですから、地球上の現象を説明する場合でも、方程式を使って証明を終える、というのはまずいということになります。

 宇宙的視点でものごとを考えなければ説明がつかない時代ですから、方程式は、”とりあえず便宜上作っている仮のもの”という、区分け、の意識が必要かと思います。よもや、世界と方程式が完全一致しているなどと錯覚してはならないし、子供たちに、そういう伝え方をしてはいけない。あくまでも、とりあえずのものだよ、とりあえず、地球上のことを説明するために便利な仮の方程式をつくる必要があって作っているけれど、その際、切り捨てていることがあるのだよ、ということを伝えなければならないと思います。

 それを「正しい答え」として覚えさせてはいけないんです。

 地球上の仮の方程式を作るときに、切り捨てていることがあるのだという意識と、そこに目を向けて新しく考える視点がなければ、私たち人間は、その方程式を所有するのではなく、その方程式に私たちが所有されていることになります。科学的な観察や実験も含めて、人間活動が、既に誰かによって作られた方程式に奉仕させられることになります。証明するというのは、方程式に対する奉仕でしかなくなるのです。このように方程式に象徴されるような不自由な奉仕の構図が、ここに書ききれないくらい他にもたくさんあります。

 しょせん人間によって作られたものという意識を無くし、それを絶対的なことのように対応している時、人間はすべて、その絶対的なことに奉仕していることになる。相手が神のこともあるし、方程式のこともある。企業の場合もある。

 一つの認識に固定してとどまってしまっている状態は、どんな場合でもバイアスがかかっている。それがいいとか悪いとかではなく、バイアスがかかっているという意識が必要なんだと思います。

 芸術もまた人間のつくったものですが、他と異なるのは、そうして閉じられた認識のバイアスを超えていこうとする<運動のかたち>であることだと思います。

 そういう意味で、「科学を芸術と同じように考えてはいけない」というのは、私が解釈する場合でも、とても捻れていますが、ある意味で真実だと思います。しょせん、「科学とはそういうバイアスのかかったものである」という醒めた認識に立てば。そして、科学だけでなく、”現実”という固定観念の内にあって現実に所有され、現実に奉仕し、閉じられた認識のバイアスを超えていこうとする運動がともなわずに骨董化しているアートもまた、当然ながら”芸術”とは異なり、現状の科学と同じ穴のなかにあるのでしょう。

 今日の科学の多くは、科学という分野の出来事に閉じています。科学者以外との対話ができなくなっています。科学者と一般の我々をつなぐ専門メディアが伝えてくるのは、科学本来のスタンスではなく、科学のお約束事とお勉強です。そして、そのお約束とお勉強に基づいた科学は、学校教育のなかで、いろいろな科目の一つに成り下がっています。

 科学が、科学本来の精神に立ち帰り、観念のバイアスを超えていこうとする<運動>のかたちになった時、その運動は、”普遍”になれるのだと思います。

 そうなれない科学は、むしろ危険な暴力となる可能性もあります。核爆弾など明確な肉体的暴力だけでなく、知識や価値観への奴隷的従属といった精神的なものも含めて。

 現在、遺伝子工学、脳や心の問題、宇宙の根元といった人間の生死観の問題に深く関わっていくところにまで至っている科学は、科学という分野に閉じてしまうのではなく、普遍に対して開かれていなければならない。そして、科学者ではない私たちは、普遍に対して開かれた意識を持っている科学者の言葉か、そうでない人の言葉か、見極めていかなければならない。なにもかもいっしょにして鵜呑みにしてはいけない。

 疑って見極める態度というのは、ヒューザーのマンションだけのことではなく、思想家の言葉やアーティストの表現と同じく、科学者でも同じことです。とりわけ教育者については、注意が必要だと思います。