統一的見解!??

 地球のこと?に私が書いたことに対して、ミクシィの方で、下記のような問いがあったので、それに対する私の考えを書きます。

<問い>・・・それでは、熱気球が浮くのはなぜなんでしょう。熱気球は聞くけれど、冷気球は聞いたことがありません。 それとたぶん、熱気球は熱帯でも、寒帯でも浮くと思います。同じ空気でも熱ければ浮力がある(空に浮く)、とすれば、やはり熱い空気は軽いのではないでしょうか。

<私の考え>

熱気球は、気球のなかに熱エネルギーを送り込んで、空気の分子に運動エネルギーを与える。熱を送り続けなければ、動かない。エネルギーを受け、エネルギーをいっぱいに蓄えるから、広がろうとする力になる。

 重いから下にとか、軽いから上にというのは、私たちが地面に立って、その上と下でモノゴトをとらえる認識だと思う。しかし、現在、私たちは、地球全体を眺める目線も持っている。もし赤道付近にある熱気球を地球を眺める視線で観察すれば、上に上がっているのではなく、陸地から離れていくように見える筈。もしくは、陸地に近くて狭いところから、広々としたところに動いているように見えるでしょう。エネルギーを与えられた物質は、地面の方ではなく、広々とした方に向かっていく。そして、エネルギーを失ったものは、地面の方に近づいていく。空気も含めて、モノゴトの動きは、エネルギーと関係している。これは、宇宙空間では普通のことでしょう。地球の上だけ、重いと下がるとか、軽いから上がるとだけ考えると、科学が主張する普遍概念と異なってくるような気がします。宇宙では、上下左右は関係ないですから。

そう考えると、なぜ、エネルギーを得ると広々とした方に行くのかということが気になる。これは空気の現象だけではなく、人間一人一人にも共通する性質だからです。元気な子供は、外を走り回る。

 上昇気流や下降気流も、何かしらのエネルギーとの関係によって生じている可能性もあるわけです。最初に、地面が熱くなったり寒くなったりして、それから循環が起こるというのは、その循環の中に閉じこもって見るからそう見えるのだと思う。もちろん、空気が冷えたり熱くなったりというのもエネルギーの増減に関わりますから、それが原因になることもあるだろう。しかし、エネルギーの増減は、それ以外でも起こり得るはず。

 予兆のない一発雷などを「例外的現象」として扱うのではなく、何かしらのエネルギー増減の作用があったからと想定すること。そして、そのエネルギーの増減はどういうメカニズムによって生じたのかを考えること。そうした思考の自由を認めず、現在の統一的見解のなかだけでモノゴトを考えると、とても息苦しいものを感じる。一発雷の場合は、電位変化が既に観測されているわけだから、なぜ中性である筈の空気に電位変化が生じるのかを考えなければならない。電位変化を与える原因として、例えば磁気の影響なども考えられるわけで、科学は、それを確認すべきなのです。もし仮に、磁気の影響ということになれば、それが生じるのは冬の日本海だけということはない筈で、例えば、現在は謎になっているジェット気流の流れが変わる原因とかも、磁気と関係があるかもしれないと発想することはできる。

 大気循環を赤道付近の温められた空気によるものと限定したり、雷を氷の摩擦による静電気とみなしたり、気象異常の際には常にエルニーニュ現象が取り上げられたりするわけですが、そうした考えは、現象の表層をなぞっているようにしか感じられません。

 科学というのは、統一的見解を重んじているのはわかっているのですが、実はそれは、細かく枝分かれした分野の中だけで完結していることが多い。

 「エネルギー保存則は、閉鎖系でのみ成立する」ということを前提に、それぞれの分野が閉鎖系となり、その中でエネルギーの循環などのメカニズムを考えている。それゆえ、地球を研究する人は、地球を閉鎖系のようにみなしてエネルギーのことを考えている。

 私が素朴な疑問を持つのは、たとえば、大気圏から成層圏と空気の層があるわけですが、その上はどうなるのか?

 全ての空気が地球圏にとどまるのか?

 地球圏のなかでも、圧力や磁力の影響で、分子の状態でいるとは限らず、原子から陽子になってしまうこともあるのではないか。実際に、上空は、プラズマ状態になっている。そうなる原因は、何なのか? プラズマ状態であることや、オゾン層が紫外線を吸収するという現象を教えて欲しいのはなく、なぜそうなるのか、そしてそうなった後、どうなるのかが大事。しかし、プラズマ状態のなかの量子の動きは、地球分野の科学者ではなく、量子分野の科学者の専門になってしまう。

 プラズマ状態で運動力を持った量子は、地球圏を超えて出ていかないのか。私は出ていくにきまっていると夢想するが、地球圏を出ていって真空状態のところに至ると、空気抵抗などいっさいないわけですから、どういう状態になって、どういう運動をしているのだろうかと気になる。そうしたものが勢いあまって、宇宙線と錯覚させるような物質となって、再び地球に降り注いでもおかしくないだろうと。

 

 いずれにしろ、科学の恩恵によって観測技術は発達し、様々な現象を知ることが出来るようになっている。それらの現象は、株価のように人間の不可知の領域のメカニズムも全て、どこかで反映された結果として生じている。それを一つ一つ分析したり、例外扱いして整理するのではなく、先入観無しに、それらの現象をすべて目の前に並べて、それらの現象を説明するのに今までのロジックだと矛盾を感じてしまうようなことは、なぜそうなるのかを考えて、全体の辻褄が合うような新しい物語を考える努力を、少しくらい行ってもいいのではないかと私は思う。

 そんなのは辻褄合わせだと言うかもしれないけれど、人間は何をどう認識しようが、人間の認識の範疇の辻褄合わせしかできないということを忘れてはならない。科学にしても例外ではない。例えば、望遠鏡など人間の認知機能を拡大したように感じさせるものでさえ、人間がつくり、つくる段階で、人間が自らの認知機能によって誤差の修正を行ったり、調整して出来たものであることを、人間はなぜか忘れがちだ。

 人間の行うことは例外なく、それぞれの分野のバイアスがかかった辻褄合わせでしかない。ならば、人間に残された唯一の自由というのは、新しい辻褄合わせを考え出すことではないかと私は思う。

 様々な経験のなかで、様々な現象に触れ、人間の認識は形成される。だから経験によって、認識は異なる。また、それまでの認識では当てはまらないと矛盾や疑問を感じ、その違和感を素直に述べる権利も誰にでもある。

 そして、認識を見直す必要を感じれば、自然とそうしていく。世界をどのように解釈していくかという心の問題は、個人の自由であっていいのだ。そうしたことと、実生活において他人に迷惑をかけないというバランス感覚を養うことは、別次元の話しだと私は思うのだが、統一的な見解で縛っていないと社会適応ができないとか、競争に不利だとか、他人に迷惑をかける人間になってしまうなどと神経質になって、子供の教育にあたっている人があまりにも多いように思う。