統一的見解!?

 

 最近、私は「風の旅人」の編集の仕事に集中しているが、これを始める前の旅行業をやっている時、毎年、数多くの採用面接を行って、若い人たちが弊社に入社した。

 その全員を一括りにすることはできないが、傾向として懸念を強く感じていたのが、彼らの、モノゴトを疑う力の弱さだ。

 仕事を行う上でも、「どうすればいいのですか?」、「決まり事はどうなっているのですか?」と、作業上の手順は確認できて、そうしたことの覚えは速いが、なぜそれがそうなっているのかを、あまり考えない人が多い。また、あまり考えないタイプの数ヶ月だけ早く入社した先輩がいて、伝言ゲームのように間違った指示を新人に伝えて、少し考えればそれがとんでもない間違いだと気づいて当然なことでも、疑うことなく素直に実行していたりする。

 そしてそれを叱責したりすると、「先輩にそう指示されました」とか、「そういうものだと思っていました」と答えて、自分は全然悪くないのに、なぜ叱られなくてはならないのだという納得のいかない顔をしている。

 そうしたタイプは、どちらかというと、学業優秀の人の方が多いということもあった。

 学校生活においては、そういうタイプの方が良い成績を取れたのだろう。先生の言うことを素直に聞いて、できるだけたくさんの知識を覚える。その時点で、統一見解とされることを、できるだけたくさん覚えた方が勝ちという構図だ。

 しかし、そうして学校生活を送ってきて、そのまま学者生活に入っていく人は希で、ほとんどの人は実社会に入ることになる。実社会というのは、人間がつくりあげる世界なのに、まるで生き物のような複雑な運動をして、それまでに認識されていることをそのまま行ってもうまく対応できない。その都度、新しい局面が生じるから、できるだけ先入観を捨て、その都度、何がどうなっているのか背景を考え、かつ行動するとなったら分別を捨てて最善と思われる方法を決断し、行動しなけらばならない。統一的見解などと言ってダラダラしていたら手遅れになることも多い。

 そうした実社会の混沌を、高見の見物のように揶揄できる職業の人もいるだろうけれど、ほとんどの人はそうはいかない。それが厭だと言って敵前逃亡する選択もあるが、けっきょく、人生のどこかでツケが回ってくる。

 こうした世の中の状況を、その中にいない立派な学者さんが、あれこれ批判したり、意見を述べたり、議論していて、何ら具体的なことが行われないまま、状況は着々と進んでいく。

 知識情報の発達によって、社会は益々高速化し、変化が激しくなればなるほどその知識情報も増えるのだが、その枠組みのなかだけで子供達の教育を行っていくと、ますます疑う力が弱くなって、混沌の社会に適応しずらい人が増加することにならないだろうか。

 私にも二人の子供がいるが、何が子供の幸せになるか誰もわからないけれど、ただ一つ、自由にモノゴトを考えることの大切さだけは伝えたいと思う。自由にモノゴトを考えるというのは、好き勝手なことをするということではなく、どんな状況に直面しても、自分でモノゴトを考えて行動できる耐性を身につけていくことなのではないかと思う。

 そうした耐性がないと、人が言っていることを何でも真に受けてしまう。

 人を信じるというのは、人が言うことを真に受けることではなく、その人の未来を信じることだと私は思っている。その人の未来を信じるからこそ、自分ごととして深く考え、疑うべきところは疑い、修正すべきところは修正すべきだと思っている。

 それは、自分の認識の強要ではない。なぜなら、密室での容赦のない裁きではなく、オープンの場で行われているのなら、そこには対話の余地が残されているからだ。そう思っているから、部下に対してもそのように接する。

 そういう場合、対話の余地が残されているといっても上司と部下じゃ最初から勝負が決まっているじゃないかと引っ込んでしまう人もいるかもしれないが、権威による強制とか、経験の押しつけとか、慣習上の踏襲ではなく、自分の言葉と言葉のぶつかり合いならば、それは強要ではない。歯が立たなくて悔しい思いをすれば、それを耐性にすればいいこと。自分の言葉で対話や議論ができるように、自分の頭で考えるように習慣づければいいこと。人生の先は長い。今そういうことを避けて通っても、いずれ年を取ると、自分の下に若い人が入ってきたりするわけで、その人たちに自分の言葉でモノゴトを伝えられなくなってしまうだけだ。

 人間の認識というのは、生きてきた環境によって人それぞれ違って当たり前だけど、違うから自分には関係ないと言ってしまっては社会で生きていけないから、自分の属する環境のなかで、時と場合によっては譲歩し、どうしても譲れないと思うものは譲れないと言う。そのバランス感覚や耐性を養っていくことが大事で、どんな局面でも予め用意されたステレオタイプの解答によって対応しようとしても不可能な時代になっている。