不器用の味の深さ

 

 一昨日、会社の創業20周年を祝う、ちょっとした酒宴があり、社員が一堂に会したわけだが、全体を見渡していてふと気付いたことがあった。それは、現在社内で存在感を発揮している者の多くが、入社した頃は不器用で、決して仕事ができるタイプでなかったことだ。

 例えば、お客さんの前でスラスラと説明できなかったり、電話対応でも、決してぞんざいではないのだけどうまく喋れず、傍で聞いていてハラハラしなければならなかったり、添乗業務も、人柄はいいのだけどプロとしては失格などと評価されることが多い者たちだった。

 うちの会社は男女を問わず仕事に対しては厳しく叱る社風があるので、彼らは、最初の頃、上司や先輩にしょっちゅう叱られていたのではないかと思う。

 そもそも弊社の採用において、もっとも重視するポイントが、不器用であっても誠実であることだから、時々、不器用の塊のような人が入社してくる。

 添乗などは、器用な方がいいだろうと思っている人がいるが、私の経験上、決してそうではないことがわかっている。

 不器用で誠実な人間は、多少のクレームをもらうことがあっても、大クレームになることはない。また、15人のお客さんがいたら、4,5人の性格のキツイ人に猛烈に批判されることがあったとしても、他の温厚な10人は擁護してくれたりする。いくら時代が変わろうとも、日本人というのは、誠意とか真心を何よりも重視する人たちなのだ。

 そして、添乗などにおいて最悪なのは、器用にこなせる人が、自分でうまくできているつもりになって手を抜いてしまい、その浅はかさに気付かず、不誠実な対応に終始してしまう場合だ。この場合は、大クレームになって収拾がつかなくなる。

 自分に至らないところが多くあるという自覚の強い不器用な人間は、モノゴトに必死で取り組む。その真摯な様は相手に伝わる。しかし、器用な人間は、自分に至らないところが多くあるという自覚の弱いケースが多い。

 もちろん、器用で仕事が素晴らしくできれば問題はないのだが、仕事というのは、器用さによってクリアできるほど単純なものではない。料理などにおいて、素材を器用に切り刻んで皿に盛っても、味付けが下手だと料理にならない。

 不器用な切り方でも、味付けが絶妙な料理の方がマシなのに、器用な人間は、味付けの大切さをわかっていないことが多い。

 モノゴトを真剣に考え、環境に適応するために一生懸命に自分を改善しようとして藻掻くと、不器用になりやすい。自分に与えられた新しい環境を自分で消化できない、どうすればいいかわからないと、悩めば悩むほど、身体と頭がチグハグになる。

 しかし、そうした足掻きのプロセスを忍耐強く超えていくと、自分の身体の芯からモノゴトの本質がわかるようになる。その時点で、自分流のやり方というものを身につけている。自分の身体で掴んだ自分だけの方法論なので、見た目の巧みさはなくても、味わい深いものになっている。だから、相手の五感に働きかけることができる。

 それに比べて、ノゴトの表面的なものだけを見てわかったつもりになったり、人のやっていることをコピーすることに長けている器用な人は、あまり悩まないので、身体と頭がバラバラになることは少ない。

 しかし、そうしたプロセスをいくら踏んでも、モノゴトの本質がわかるようになるわけでもないし、自分流の方法が確立されていくわけではない。だから、いつまでたっても、味気ない。そして、本人も、皿の上に切って並べる作業の繰り返しに、飽きてしまう。味の奥義を究めるというプロセスがないから、仕事がつまらなくなってしまうのだ。

 そのように心が入らない仕事を何年も行うと、自分がまるで成長していないことを知って愕然とする。自分が成長できることが他にあるのではないかと悩み始め、上の空になり、さらに真摯に取り組めなくなる。そうすると、ますます成長しなくなる。悪循環なのだ。

 不器用な人間というのは、あらかじめ決められたことに躊躇無く自分を適応させることはできない。モノゴトを右から左に流すことが苦手で、自分でものを考え、悩みや迷いの道を彷徨う。

 しかし、だからこそ、自分の心身に即した方法を身につけようと足掻く。その泥沼のなかで挫折する者も多いが、周りに叱咤激励されたりしながらも、自分の足元を確認しながら少しずつ歩いていた者は、いつしか、自分なりの智慧を紡ぎだしている。

 その智慧こそが味になる。包丁さばきは、歳月を積めば誰でも身につけることができるだろうが、味の良さは、それとは別のプロセスのなかで生じてくるものなのだ。

 最終的に、味のある仕事ができるようになった者は、なぜか貫禄のようなものを漂わせるようになる。一年や二年では見えにくいが、何年か歳月を経て社内を見渡してみると、けっきょくのところ、不器用者が生き残って、存在感が増している。

 不器用者の根がしっかりと張られた仕事は、安定して落ち着いた空気を醸し出しており、その空気は、マニュアルで簡単に真似ができるものではない。

 この原理は、自然界や人間世界のすべてに通ずることだろう。

 問題があるとすれば、不器用者が作る安定と落ち着きの世界の実現は、多少時間が必要なことだ。

 現代社会はそれを待つ根気が無く、モノゴトを右から左に流し、表層だけを整える風潮が強くなっている。そして、その表層の産物を、派手な宣伝で華々しく見せる手法が一般的になっている。

 そうした時代においては、器用者がもてはやされて、器用者がつくる見た目だけよくて味気ないモノばかり供給される羽目になる。

 そうした悪循環を絶つために、根気よく長い目でモノゴトと付き合えるような環境を、意識的につくりあげていくことが大事なのだろう。社会がどうのこうのという前に、一人一人の個人にとっても、そのスタンスがなければ、人生の味の深さも知ることができなくなるのだろう。