「世界遺産」という名の背後に

 昨日、文化庁、外務省、朝日新聞が中心になって上智大学の講堂を使って行われた「世界遺産と生きる」というシンポジウムに出かけた。

 パネリストおよび講演者は、文化長官の青木保さん、上智大学長の石澤良昭さん、東京文化財研究所国際企画情報研究室長の稲葉信子さん、衆議院議員鈴木恒夫さん、アフガニスタンバーミヤン遺跡を研究している前田耕作さん、作家の田口ランディさん等であった。

 ランディさんと石澤さんと懇意にしていることもあって出かけたのだが、シンポジウムとしては中途半端だった。6人が参加するパネルディスカッションが1時間しかとられていないというのは、最初から実りのある議論を主催者側が期待していなかったということだろう。

 もともとこのシンポジウムは、「アジアの遺産と生きる」というテーマだと石澤さんから聞いていた。実際に、アンコールワットの石澤さんと、バーミヤンの前田さんが、声をかけられていた。しかし、その後、テーマが「世界遺産と生きる」になってしまった。

 「世界遺産と生きる」というテーマになることで、ユネスコが選定する「世界遺産」の話になってしまい、ユネスコが選定しようがしまいが関係なく守っていくべきものという論点からずれてしまった。このシンポジウムに、わざわざ石見銀山の「世界遺産誘致運動」の中心人物が来られて、マイクを持って世界遺産指定の喜びを声高に語るなど、実際には逆の立場の人もいるだろうに、なんとなく文化庁、外務省および、そこに政治活動の糧を見いだす人の「宣伝」の色合いが強くなってしまった。

 ユネスコの「世界遺産」は、人類が共有すべき普遍的な価値をもつ遺跡や景観そして自然などを指す。

 その選定は、ユネスコで評価され、判定され、最終審議されることで決定されるが、そこに至るまで、日本では、文化遺産候補は文化庁、自然遺産候補は環境省林野庁が主に担当し、これに文部科学省国土交通省などで構成される世界遺産条約関係省庁連絡会議で推薦物件が決定され、推薦物件は、暫定リストとして、外務省を通じユネスコに提出される。

 であるからして、これらの省庁が、仕事をしているということをアピールするためには、「アジアの遺産」ではなく、「ユネスコ世界遺産」でなければならない。

 石澤さんは、世界遺産とは関係なく、アンコールワットの遺跡保存、修復のために、歳月と情熱とエネルギーを注ぎ込んで取り組んできた。前田さんもそうだろう。自分が取りくんできたものが世界遺産の指定を受け、さらに、そうした活動が行いやすくなるのであれば、それは喜ばしいことだ。

 しかし、アンコールワットなどは、観光客が異常に急増し、遺跡保存に害を及ぼす懸念が指摘されている。

 「世界遺産」登録を目指す地域の一番の目的は、観光誘致であり、町の活性化だろうと思う。オリンピックと同じだ。世界遺産に指定されることで、たとえば漁業権などに影響が出る場合などは、「反対」が強くなる。たぶんに、経済的事情が強くなるのだ。

 このことについての賛否はいろいろあるだろうが、私が「世界遺産」について、しっくりこないのは、登録されるために、「人類が共有すべき、顕著で普遍的な価値をもつ」ことが前提になっていることだ。

 「人類が共有すべき顕著で普遍的な価値」を、政界やお役所や有識者を中心としたご立派な人が定める。そして、お墨付きを与える。そのお墨付きに従わせて管理する。そのお墨付きを欲する人がいて、そのお墨付きを確認することを目的として人が集まる。そうした構造に、とても権威的なものを感じてしまう。

 その土地の文化や自然は、人類が共有すべき普遍的価値というよりも、その土地のなかの有機的な関係、人間と文化、人間と自然などの相互依存的な関係を通して価値を帯びるものであり、そこに住んでいない(つまり実際上の責任を持たない)大勢の人類にとっての顕著に普遍的な価値のためにガラスケースに入れて保存すればいいものではないだろう。

 また、お墨付きの価値を見て確認するために、わざわざそこを訪れるよりも、先入観なく訪れることで、その価値が直接的な体験としてわかることの方が多い。

 私は、旅行業の一員でもあり、世界遺産ブームの前から、世界中の素晴らしい自然や遺跡を紹介してきたが、旅の醍醐味は、権威的なお墨付きとは関係なく、その人にとって特別だと感じる遺跡や自然や人間との出会いであり、その方が記憶の深いところに残る。自然や文化を大切に思う心も、そうしたかけがえのない出会いによって自分の中の何かが変わるから生じるのであり、「人類にとって顕著で普遍的な価値」という基準は、そうした自分に固有のかけがえのなさを希薄化させるのではないだろうか。

 そして、保存に関しても、そうした世界標準(といいながら欧米色が強い)の枠組みで発想していくところに、問題があるように思う。

 そもそも、欧米と東洋では、自然観が違う。人の手が入ることを反自然、人工とみなしがちな西洋人に対して、東洋では、人間の「手入れ」も、自然の一部だ。人間が上手に手を入れることで、自然は生きる。雑木林など、人の手が入らなくなって荒れてしまうところは多い。

 今回のシンポジウムでランディさんが、屋久島の件を取り上げながら、そのことについて言及していた。

 標準化された管理・保存のルールを強要されることによって、人間が自然の呼吸を読みとりながら共に生きてきた智恵がなくなっていく可能性もあり、そうなると、ブームが過ぎ去ったり政治的事情で世界遺産という枠組みが無意味化した時に、机上の論理で地域興しという目的のために第3セクターが作り、その後使われなくなって放置されている建造物のように、無惨な荒廃につながっていく可能性だってある。

 かなり以前に石澤さんから聞いた話で感心したことがあった。

 アンコールワットの遺跡の上に植物の種が落ち、根を張り、積み上げた石を破壊し、大量の落ち葉を降らせ、それが腐葉土となって遺跡が埋もれていく。そうした自然の猛威に抗うようにコンクリートなどで固めていくという西欧的発想はナンセンスだ。

 そうではなく、その遺跡の傍に住む人々の信仰心が、毎日、聖地を掃き清めることで、降り積もる落ち葉や種を取り除く。なかには、根を張る植物もあるだろうが、必要に応じて、それが小さい時に切り取ることもできるし、そのまま生かすこともできる。遺跡を守るという使命感ではなく、人々がごく自然に持続的な関わり方をすることによって、崩壊の速度を緩めることができる。また、他国から技術者を連れてきて保存修復しても、それぞれの国の事情でそれが中断されたり終わったりしたら、何にもならない。だから、そこに住む人々を育て、技術や知識を身につけさせることが大事だという話しで、実際に石澤さんは何年もかけて地元の人々を立派な石工に育てた。彼ら自身の手で、自分たちにとって大切なものと持続的に関わり、そのことが誇りになるように。

 すべての形ある物で、普遍の価値を不変に維持し続けるものなんかない。自然や文化などにとって大事なことは、現在残されている形を、そのまま真空パックして美術館の鑑賞物のように維持して、世界中の人々の共有の宝物だと示すことではないと思う。

 大事なことは、価値が顕著であるとか顕著でないとか関係なく、文化や自然に対して、かけがえがないと思う気持ちを育むことであり、その気持ちをもとにモノゴトを付き合っていくということ。その時間の流れを記憶化していくこと。そうしたプロセスによって形成されたスタンスが、他のいろいろなモノゴトに反映されることではないか。

 そして、かけがえのないと思う気持ちは、形あるものだけ見ていればいいのではなく、モノゴトの無常に触れることによっても育まれる。

 「普遍的価値の顕著なもの」と権威がお墨付きを与えたものだけを特別視したり、形そのものの維持を目的化すると、大切な本質が見失われて、それ以外の他のいろいろなモノゴトに反映していくべき心が、ないがしろになる可能性もある。

 石澤さんが話されたことや、ランディさんが言及したことなどは、ユネスコ世界遺産の理念ではなく、どちらかというと“東洋の心”だと思う。

 そういう意味で、今回のシンポジウムは、ユネスコの定義とは別に、当初の予定どおり、「アジアの遺産」という趣旨で、それらに対するアジア的なアプローチを話し合う機会であった方がよかった。参加メンバーも、その方が、「世界遺産」という大きな概念ではなく、等身大の意見を素直に語りやすかったのではないだろうか。