正しいか間違っているかではなく

 大屋さま

 私は、たとえ匿名の方でもコメントも削除していませんし、私に対して批判的な方のコメントもそのまま残していますので、抑圧していないと自分では思っています。抑圧というのは、気に入らないコメントは削除してしまうことでしょう。

 私は、「違和感がある意見は止めてほしい」というコメントに対して、それはおかしいのではないかと言っているのです。

 もしも、学校などで、私のような生徒がいたら、先生は、「それは間違っている。本を読みなさい」と言って終わってしまうのでしょうか。生徒は、違和感のある問いは、授業の邪魔だと言って、先生が黒板に書くことだけ素直にノートに書き写して、それを覚えるのでしょうか。

 違和感のある意見がある状態の方が健全で、すべてが正しいとされる答えで統一される方が、よほど不気味です。

 保苅実さんがラディカル・オーラル・ヒストリーで実践されていましたが、例えば、アボリジニの歴史は、西洋の実証主義的な歴史とはまるで異なっている。西洋からみれば間違っている。しかし、アボリジニにとってはリアルな歴史である。アボリジニの智恵を尊重して、そこから学ぼう、などと、耳障りのいいメッセージをもとに書かれた本がありますが、そうした場合、必要なところだけ料理され、自分たちの世界認識と根本的に異なって違和感のある部分は排除されることがある。しかし、保苅さんは、西洋的には間違っているとされるアボリジニのリアリティに深くコミットし、それを感じ取ろうとした。

 また、たとえば雑誌などの言論に対して干渉があった場合、インターネットにはまだ自由の余地が残っている。そうした際に、人に受け入れられやすい意見ではなく、人が違和感を覚えるようなことのなかに大事な問題が潜んでいることも多々あるでしょう。だから、インターネットのなかには、違和感があるものも含めて、いろいろな意見があってしかるべきなのです。むしろ、その方が、正しい答えで統一されているよりも、健全だと思います。

 そもそも、インターネットを、正しい意見が書かれている媒体と思うことじたいが間違いで、いろいろな意見の中から、自分に必要な意見を選択して抜き出していくことをトレーニングしていく場だと考えるべきだと私は思っています。

 学校教育の影響だと思いますが、どうも今日の社会は、正しい答えを求め、正しい答えに安心しすぎている。だから、詐欺師がそこに付け込んで、正しい顔をして、正しいことを言っているようなそぶりで、人を騙す。

 私は、「風の旅人」の創刊の時から、正しいことではなく、根元的なことを探るというスタンスで行っています。それゆえ、出版界では、正しくないとされることもたくさんやってきています。

 創刊号で、白川静さんに、「そろそろ死にましょか」というテーマで原稿を書いていただき、生々しい鳥葬の写真や、棺桶のなかの美しい女性を掲載し、抗議も受けました。決して奇をてらってやろうとしたのではなく、死を見えないところに追いやろうとする風潮に対する懸念からのことです。それ以外にも、ここに書ききれないくらい、出版界の非常識をやってきました。

 ですから、このブログでのことも、教科書とか一般の科学書に書かれていることと異なっているのは百も承知です。科学書に書かれていることを、ここに書き写すことは簡単なことですし、それをやっても全く意味がありません。

そして、ここでこういう形で私が書いている程度のことに影響されるということも問題ではないか、ということを同時に問うています。私が何を書こうが、小泉首相が何を言おうが、科学者が何を言おうが、マンションのセールスマンが何をどう説明しようが、相手の言っていることはひとまず横に置いて、自分はどう感じるのか、どう考えるのか、ということを徹底的に大事すればどうなるのか、ということを行っているだけです。

 私がかつてこのブログで「肯定の批評」と言ったのは、社会に溢れている膨大な作品のなかから、”わざわざ”否定しやすい作品を抜き出して否定することの無意味さを言ったわけです。

 そして私が杉本氏を批判したのは、作品そのものではなく、メディアとか評論家が一体化となって、虚構を増幅させていくその構造に対して、注意が必要ではないかという意味を籠めて書きました。

 今日のアートは、ニューヨークの美術界に属するギャラリーやメディアや評論家が結託すれば、いかようにも作品の価値を上げ下げすることができ、それは、株式市場に対するヘッジファンドのようなものではないかと私は思ったからです。

 そして、科学の場合も、特定の個人や何かを否定しているわけではなく、科学といえども鵜呑みにしない方がいいのではないかということを、私なりの方法で書いているわけです。

 私が懸念しているのは、科学の言葉の伝言ゲームです。最先端の科学から、次々と人の手を経て、教育現場にもたらせる伝言ゲームです。伝言ゲームのなかに、メディアも加わり、子供たちには、学校の先生を通して伝えられます。

 その際、本来のスタンスが忘れ去られ、その考え方の背景も骨抜きになり、いつしか内容が変質し、方程式のような約束事だけが順々に伝えられていないか。そのようにして、世界が味気ないものになっていないか。現在の教育現場を蝕む原因の一端がここにないか、というのが私の問題意識です。

 人間に認識できていないことの方に本当は大事なことがあるかもしれないのに、人間の認識の範疇だけで世界を説明しようとする。たとえば、子供に対して、「嘘をついたら閻魔さんに舌を抜かれるよ」と叱る時、その閻魔さんという恐いものに対するリアリティを維持することの方が、科学の方程式でモノゴトが説明していくことより、人間社会では大事ではないかと私は思っています。実際に、私は子供にそう接したいと思います。

 うまくいくとは思いませんが、私が試みたかったのは、いつしか見えにくくなっている科学本来の、世界の不思議と根元に思いを馳せるというスタンスを、逆説的に照らすことです。

 自然人としての自らの頭で考えて知識を疑い、問いを発することで、科学にまとわりつく夾雑物を洗い落とし、科学本来のあり方というものにフォーカスしていく。科学の難しいことは専門の人に任せていればいいというのではなく。

 現在、科学の最先端が現在行っていること、遺伝子工学のこと、心と脳のこと、宇宙の根元のことは、人間の生死観そのものとも深く結びついている。

 人間の科学は、ぎりぎりのところにきている。全ての科学者がそういう自覚をしっかり持っているかどうか。中世の聖職者のように、既存の認知世界のなかに胡座をかいて甘んじていないかどうか。

 われわれ科学者でない者は、それを見分ける目を持たなければならないでしょう。その一歩が、知識を疑う態度だと私は思っており、知識は疑っていいのかもしれないというニュアンスを伝えたいがために、自分の言葉で、考え方を示しているわけです。

 正しいことを言うつもりは、最初からありません。

 正しいとか間違っているとかの分別とは別のところで、自分の生死に引きつけるために世界とどう向き合うかということを、ブログという場を活用し、いろいろな方法で探っているだけです。

 でもまあ、科学については、これ以上、頭がついていきませんから、これくらいでやめようとは思っていますが。