流儀の違い

 人は、それぞれの経験の違いによって、流儀も異なる。

 今日、写真プロダクションの人と、写真家?が事務所に来た。

 まず、約束の時間に遅れて、お詫びの一つも無いと、ビジネスの世界に生きてきた私は、それだけで話を聞くのが厭になってしまう。でもその二人はまるで気にせず、自分たちのことを喋り始める。

 写真家?の人は、「私は今まで商業写真というのをやってきてなくて、だから雑誌に掲載したことがないのだけど、風の旅人は写真をけっこう使っているみたいなので、提案が可能かどうか確認しに来た」というようなことを喋る。また、自分は、日本を丁寧にとっているから、セバスチャン・サルガドとは逆のタイプの写真家だと、編集部に貼ってあるサルガドが撮った金鉱の露天掘りのポスターを見て言う。

 私は、6月号以降、日本に焦点を当てたいと考えていて、日本を舞台にした具体的な提案があると聞いたので時間を空けたのだが、企画書も写真も何もなく、今日のところは、「提案する余地があるのか」の確認の為に来たのだと言う。提案する余地も何も、それは内容次第だろうと思うが、提案の余地があるのなら提案しましょ、というスタンスのようなのだ。

 私は、誌面に余地とかスペースがあって、そこを何かで埋めるというのではなく、仮に余地がなくても、強く触発されることに出会ったり、相手の真摯な態度を意気に感じたり、一緒に仕事をしたいという衝動になると、それまで考えていた予定を変えてでも対応することがあるのだけど、その人たちにとって、仕事とは、どうもそういう流儀でやるものでないみたいなのだ。

 それ以前に、商業写真だ、アートだ、という話で既に私はうんざりしてしまう。時間もお金も余裕のある人が何かのきっかけで写真をはじめて、アートを気取っているのかなあと勘ぐってしまうのだ。

 食べるために真剣に写真を撮っている人に私は敬意を抱くし、アートかどうかなどどうでもよく、作品が良いか悪いかが全てだと私は思っている。

 さらに話しのなかで、「風の旅人」は一冊しか見ておらず、編集方針とか内容もよく把握していないことが伝わってきたので、この雑誌は各号ごとにテーマに添って作っているので、提案は、雑誌の趣旨を理解してからにしてくれと私が述べると、写真プロダクションの人が、「自分も写真雑誌の編集をしていたから、いろいろわかる」と言う。写真評論家の○○さんと一緒に仕事をしていたし、とも言う。○○さんなんて、どうでもいいじゃない、と思いながら、いろいろわかるってどういうことなのだろうと訝しげにしていると、その意味は雑誌の作り方とか進捗みたいなことで、いろいろな人に会って、いろいろ話しをして、それでいろいろなアイデアが出て、雑誌を作っていった、だから、こういう話し合いも無意味ではないというようなことを言いたいみたいだ。

 二人に共通していることは、自分の流儀しか見えておらず、自分の流儀を伝えることがプレゼンだと思っていることだ。相手のことを充分に研究してから事に当たろうとするのではなく。

 これもまた、ビジネスの世界で生きてきた私の流儀とは大きくかけ離れている。

 それぞれの流儀が違っているからどうしようもないのだけど、目的は、プレゼンそのものではなく、モノゴトを成就させることなのだから、相手のミットにボールを投げることから始めなければならないのではと、私などは思ってしまう。

 こういう展開になってくると、私は、相手が何をしにきたのかさっぱりわからなくなる。

 このように、自分がふだん一緒に仕事をさせていただいている人たちとまったく異なるタイプの人と会って話しをすると、とても疲れるけれど、良いところもある。それは、普段は忙しくてあまり意識しないのだけど、仕事をしていくうえで、ジレンマを感じずに話しができたり、ベクトルを共有できる人たちのことを、とても有り難く感じられることだ。

 時々でいいのだけど、自分とまったく流儀が違う人と接点を持つと、自分の考えを再認識できるし、自分の周りの人のこともよく見えるようになる。

 自分とできるだけ遠い人と関係を持つことが、自分を確認するために一番いいことなのかもしれない。