「アート」って何!?

 写真集専門の書店に「風の旅人」を売り込みに行った時の話し。
「うちは、アートしか扱っていないんだよね。5号で出ている森山大道なら、絵柄的にアートで通用するけれど・・・。」
 確かに、この店には洋書を中心に写真集が山積みされているけれども、硬派のドキュメント写真家は一人もいない。野町和嘉とか水越武とかの写真集など一冊もない。「風の旅人」の第13号はセバスチャン・サルガドの巻頭特集があるので、写真に少しでも関心のある人なら興味を持つのではないかと交渉しても、反応は鈍い。
 サルガドの写真は、どうも真に迫りすぎて、アートとは言えないのだ。
 野町さんや水越さんの写真もしかり。迫力がありすぎるものは、「アート」ではない。だから、人気がないという。
 ブルース・デビットソンのニューヨークの地下鉄の写真集は、かつて真のドキュメントだったのだが、現在のニューヨークが綺麗になったために、真に迫っていないということで、「アート」として括られるようになった。
 つまり、真に迫っていなくて、表層的に綺麗なものが「アート」ということになる。それは、日本語で言えば、「芸術」ではなくて、「装飾」という意味なんだろう。日本語で「装飾」と言えばいいのだけれど、「アート」と言うことで、少し高尚なイメージを演出できる。でも「芸術」と言ってしまうと、重すぎて嫌われてしまう。

 「芸術」と言うには躊躇いがあり、「アート」となら言いやすいものの共通点は、
1.装飾的であること。その作品単独ではなく、コラージュとか、デザイン素材の一部として使った場合、それなりに綺麗な雰囲気になる。
2.技巧的であること。簡単に言えば、奇をてらっている。伝えたいことを伝えるために苦心の末、そのスタイルに辿り着いたという感じではなく、見せ方の面白さに拘泥している。日本のテレビ番組とか広告も、この種のものが多い。
3.「私」の自己表現色が強いこと。自分の気分を視覚的に伝えることにのみ関心がある。

 1は、カタログデザイナーなどの参考資料になる。2は、広告関係者の参考資料になる。3は、自己表現意欲の強い、「アート」系予備軍の参考資料になる。
このように各種分野の人々の参考資料になるのだから、人気!?は高くなるのだろう。
 しかし、「芸術」と言うべき”真に迫ったもの”をつくり出すのは、あまりにもハードルが高い。そこまで切磋琢磨して、ハードルを越えようという人は少ない。「芸術」は「アート」に比べて、狭き門だ。だから、人気!?も低くなる。
 
 「アート」は、広き門である「アート」表現を志向する多くの人に買い支えられ、結果的に、人気らしいものになり、そのハードルの低さが魅力で、そこに入ろうとする人もスパイラルに増える。しかし「アート」表現を志向しない人にとっては、どうでもよいものが多い。
 「芸術」は、「芸術」を志向する僅かな人の、道しるべになっているが、そのハードルの高さゆえに、その世界に入ろうする人も少なくなる。しかし、「芸術」表現を志向しない人の人生にとっても大事なことが、その表現に多く含まれている。