第1199回 世界の現実を自分ごとに引き寄せる写真

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 このたび、日本写真家協会が創設した笹本恒子写真賞の審査員をつとめることになり、渋谷敦志さんの写真活動が賞にふさわしいと思い、選ばせていただいた。

 渋谷さんの写真活動はスケールが大きい。彼は、20歳になる前の1993年ごろから今日まで27年ものあいだ、世界の様々な地域を訪れ、紛争、貧困、難民、飢餓、環境問題などを取材し続けてきた。写真のジャンルでいえばドキュメンタリーということになるが、私の印象では、現代における黙示録を写真の力で描き出そうとしているような印象を受ける。

 いわゆる報道写真の場合、写真を観る者に対して、こんな酷いことがあるぞとニュースを押し付けてくるわけだが、そういう伝え方では、自分たちは安全な日本という国に住んでいるけれど、どこか見知らぬところで酷いことが行われているという情報処理のされ方になってしまう。

 渋谷さんの写真の眼差しは少し違う。厳しい現場での撮影なのだが、その眼差しはどこか優しい。撮られている人と心が通い合っていることが伝わってくる写真が多い。

 現代の黙示録を写真で表現している写真家としてはセバスチャンサルガドが有名だが、サルガドの写真は、聖画のような荘厳さや崇高さが際立っているものの、被写体との心の通い合いを、ほとんど感じることはない。

 サルガドの眼差しが神の目だとするならば、渋谷さんの目は、同じ地球人としての目だ。

 「私たちは日本に帰属しているけれど、この写真の人たちは別の国に帰属していて、その国がこんなことになっていて可哀想だ」という心理も人間の優しさの一部だろうと思うけれど、その心理の根本に自分が帰属する集団への依存心があるかぎり、いざという時に、その優しさは残酷さへと変わりうる可能性がある。つまり、自分が安全圏にいる時だけの優しさであり、自分の立場が不安定になれば、そうは言っておられない、ということになる。

 どこかの会社や、組織や仲間、国家への帰属によって安心しようとする心理が人間にはあるが、そうした帰属意識とは離れて、孤高の境地でさえ世界で起きていることを自分ごととして引き受けることができるかどうか。

 そのうえで、自分のことを主張するのではなく、起きていることや、起きていることに巻き込まれている人々の立場になって、物事を伝えるためには、忍耐と時間を必要とする。

 渋谷さんは、過酷な状況にある現地を訪れても、撮っていない時の時間が膨大にあるだろう。考えたり、悩んだり、対話を重ねたりして、人々と自分の距離をつめていく。そうした姿勢でなければ撮れない写真を撮っている。

 だから、これらの写真は、どんなに遠く離れた国であっても、それを観る者に、自分に近い人たちに起こっている事と感じさせる力がある。

 写真を観る人が、写真に写っているものを自分ごとだと引き寄せて感じられる写真は、実は、そんなに多くない。

 一人ひとりの人間に対して、世界で起きていることが決して他人事ではないことを深く感じさせ、現状の生き方を問い直す力を秘めた表現は、この時代において、かけがえのないものだと思う。

 

 

ピンホールカメラで撮った日本の聖域と、日本の歴史の考察。

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