第1427回 ビクトル・エリセと小栗康平の眼差しが交差するところ

ビクトル・エリセの最新作の「瞳をとじて」を観て思うところがあったので、昨日の夜、彼の処女作である「ミツバチのささやき」を久しぶりに観てきた。
 素晴らしく心に染み込む映画ではあるのだけれど、この映画の魅力は、無垢の少女のアナの眼差しに引き込まれて、その眼差しと自分の心が重なって現実と虚構の境界が揺らいでいくところにある。
 「ミツバチのささやき」の中の少女の汚れなき眼差しは、映画の作り手にとっても、映画表現を通じて残し続けたい、世界と向き合う際の心の誠実さだろう。
 それに対して、最新作の「瞳をとじて」には、無垢な少年や少女は実際の人物として出てこなくて、映画という虚構世界の中で使われる一枚の写真の中に閉じ込められている。その少女が、映画の最後の方で写真の中から現実の中に出てきても、それでもなお制作中の映画の中の出来事という設定であり、その制作中の映画を、「瞳をとじて」という映画の中で私たちは観ることになる。
 そのように虚構が何重にも重ねられて、その虚構の層の奥から、無垢な少女の瞳が私たちを見つめてくる。
 無垢とか誠実に対して、これが年をとるという現実なのだろうか。
 「ミツバチのささやき」のなかでの「私はアナよ」という台詞は、少女アナが映画で観た気の毒なモンスター(フランケンシュタイン)と重ねた逃亡兵士と心を通い合わせるために発せられるものだが、「瞳をとじて」の方で発せられる「私はアナ」という台詞は、記憶をなくした父に向けられるものだ。
 「ミツバチのささやき」の方のアナは、自分が助けようとしたモンスター(兵士)が死んでしまうと、激しい衝撃を受けて現実世界から魂が遊離してしまうけれど、「瞳をとじて」のアナは、久しぶりに会った父が記憶を取り戻して自分のことを思い出してくれないと、主人公の映画監督ほど思い入れがないようで、すぐに自分の現実に帰っていこうとする。
 これもまた年をとるという現実になるのか。
 映画監督である主人公の祈りと哀しみは、ビクトル・エリセの祈りと哀しみ。その哀しみは、自分の未完成の映画フィルムをテレビ番組の素材として使って小遣いを稼がなければいけないという今日の表現者が置かれた立場の哀しみでもあるけれど、それ以上に、表現者のミッションとして、世界と誠実に向き合って真理を探究することなど誰も期待していないという現実のなかに自分が存在しているという哀しみだろう。
 この現実の中での「探究」とは、自分の映画フィルムが素材として使われるテレビ番組の「失踪者の探索」にすぎないのだから。
 ビクトル・エリセの映画を観て考えたのは、エリセと同じく寡作な日本の映画監督、小栗康平さんだ。
 小栗さんの処女作の「泥の河」は、エリセの「ミツバチのささやき」と同じく無垢な少年の眼差しの中の世界が描かれていた。
 この作品が大成功を収めて、今でも小栗映画といえば「泥の河」が好きだという人が多いのだが、小栗さんは、同じ位相にとどまらなかった。
 次の「伽倻子のために」は、青年男女の純粋誠実な眼差しの中の世界であり、その次、カンヌグランプリを受賞した「死の棘」では、中年男女が主人公で、夫の不倫で心が壊れていく女性を通して純真が描かれた。
 そして次の「眠る男」では、壮年から老年の登場人物が多く、主人公は、植物人間だ。現実世界と切り離されているがゆえに魂が清らかなままの植物人間の周りで物語が進んでいく。
 さらに次の「埋れ木」では、展開はさらに複雑になる。無邪気な少女たちは、ファンタスティックな物語を次々と作り出していくのだが、町に住む大人たちは、ファンタジーとは無縁の世知辛い現実に即したリアルな過去の物語の中にいる。この二つの物語は決して交わるところがないのだが、地中に埋もれた古代樹という神話世界を通じて交わることになる。
 古代樹の世界は、神話的であるが、そこに在る現実だ。ファンタジーを作り続けていた少女たちと、ファンタジーとは無縁になっていた大人たちにとって、古代樹の世界は、同じ夢の中の世界でもある。
 「埋れ木」は、映画という虚構世界が、夢を失った現実に対して、リアリティを失わずに、夢を保ち続ける装置として働いている。
 ファンタジーの難しい現実に直面しながら、小栗さんは、「眠る男」という作品で「植物人間」を表現の軸にせざるを得なかったわけだが、さらに難しくなる現実において、映画の可能性を諦めない小栗さんは、「埋れ木」というリアル世界と接点のあるファンタジーを作り出した。
 しかし、世間の人々の多くは、リアルとファンタジーの接点など誰も気にしなくなった。世の中に媚びた評論家は、ファンタジーの虚構性の作り込みだけを絶賛したり、リアル世界をなぞるだけのものを社会性のある映画などといって褒め称える。ファンタジーと現実は別ものでいいという風潮だから、複雑にならざるを得ないチャレンジをした「埋れ木」を、難解だと切り捨てる人もいた。ハリウッド映画の単純明快さにすっかり慣らされてしまっているからだ。
 こうした現実世界のリアルと、芸術表現に向き合う魂の誠実さのあいだの葛藤を、戦争という極限世界を通じて描いたのが、小栗さんの次の映画である「 FUJITA」だった。
 しかし、誠実なる映画表現をとりまく環境は最悪である。世の中のムードとして、もはや映画は単なる娯楽であり、気分転換の道具でしかないから、世相に媚びても疾しさも感じない評論家は、「 FUJITA」を、暗いとか重いといった陳腐な表現でしか論じない。また、表現の深さよりも政治的な判断で映画を観る偽インテリは、現実の問題をなぞるだけの映画を、人々が関心を持つべき社会的映画などと持ち上げるばかりだ。
 小栗康平さんは、「泥の河」から「FUJITA」まで、一貫して、映画表現における誠実を追求してきた。
 現実の中で生きるということは、時とともに薄汚れて穢れていくことは仕方がなく、誠実であり続けることは夢物語でしかないと多くの人が自分に言い聞かせている現実世界のなかで、小栗さんは、虚構の映画世界のなかで、そのように人々が思い込んでいる現実と、ファンタジーのあいだを、つなごうとしてきた。
 小栗さんにとって映画を作ることの意味は、そこにしかないから、一本ずつの映画に時間をかけるしかなく、寡作になって当然だ。
 もちろんビクトル・エリセも、映画作りに対する思いや苦しみは小栗さんと同じなのだけれど、この二人の映画監督には、西欧世界の視点と東洋世界の視点の違いがあるように私には感じらる。
 ビクトル・エリセの方が、たとえば「誠実」とか「無垢」という主題においても頑なに垂直に掘り下げていこうとする指向性が強いのに対して、小栗さんは、水平にずらすことで、そこに近ずくアプローチができるような気がする。その分、小栗さんの映画の方が、6作だけれど、広がりがある。どの作品も、まったく異なる映画世界であり、ビクトル・エリセの作品のように自作をオーバーラップさせるような手法は微塵もない。
 小栗さんは、「泥の河」を作った時から、心の存り様は変わっていないけれど、同じ手は使わない。現実が変わってきているのだから当たり前のことだ。
 しかし「FUJITA」まできてしまうと、次が簡単ではない。簡単ではないけれど、ビクトル・エリセの「瞳をとじて」のラストのように、映画への希望を誰かにつなぐという祈りにはならないだろう。
 映画という虚構世界の中で、夢と現実を自分自身の手でつなぐことしか、小栗さんは考えていないだろう。
 何を信じればいいかわからない世の中でも、自分の手を信じることこそが、希望の道筋であることは変わりないからだ。

 

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