第995回 人間の尊厳とは 


 映画「この世界の片隅に」(監督:片渕須直、原作:こうの史代)がとてもよかった。
 ごく普通のことを積み重ねていくことが、こんなに愛しく、そしてそれを失うことが、こんなにも哀しいのだと、胸にしみた。
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 嫁入り前のすずが暮らしていた広島は、とても美しいふつうの世界だった。そして、彼女が嫁入り後に暮らし始めた呉という所は、東洋一と言われた軍港のある町で、異様な雰囲気が漂っていた。その異様さは、現代のモンスター都市にも通じるものだ。自分が行っていることに対して自信満々の人間たちが、ひたすら、より大きく、より高く、より強く、より速くを目指していて、その前向きなエネルギーこそが人類の進化であると信じきっている人間集団には、殺気が漲っている。
 戦艦大和も、原子爆弾も、何の疑問を持つこともなく大きさや強さを究極まで追い求めて努力する人間だからこそ、作り上げてしまう。
 原子力発電所だってきっと同じだ。強さや大きさの追求に対して意固地になっている人間は、どんなに状況が悪くなっていても後戻りをしない。
 太平洋戦争においても、アメリカ軍による激しい本土空襲が始まった時、なぜ白旗をあげることができなかったのか。
 アメリカと日本は遠く離れている。にもかかわらず、日本のすぐ近くの島々を完全に制圧しているアメリカ空軍は、毎日のように日本列島に無数の爆弾を落とす。日本軍がアメリカ本土に空襲を行うことなど、どう考えても不可能だ。戦艦大和を作ったところで、都市と同じように空襲を受けるだけだと、冷静に考えればわかること。
 日本列島への激しい空襲が始まった時に、潔く負けを認めて降参すべきだった。でもできなかった。
 そして、福島原発事故は、あの戦争の本土空襲の始まりと同じようなものだと思う。
 あとで振り返ると、なんであの時に止めることができなかったのか、ということになりはしないか。甚大な被害を受けているにもかかわらず、被害の規模を低く見積もって、”アンダーコントロール”などと言い、まだ勝算があるかのように主張して、原発を動かそうとする。そして、そういう政府の方針を支持する人たちの数が、相変わらず多い。
 ごく普通のことだと物足らず、何か立派なことでなければ生きている価値がないかのように錯覚をして威張っている人たちは、大事なことをわかっていない。愛しいものは、より大きく、より高く、より強く、より速くの反対のベクトルにあることを。
この世界の片隅に」という映画は、細かな事実を丁寧に積み重ね、細部を丁寧に描き、人と人の関係や、人の心の機微を丁寧に観察して表している。そうした丁寧な努力の結果、ごく普通の暮らしが、たとえ物や娯楽に不足していても、とても豊かに感じられるものになっている。
 だからこそ、爆撃機が爆音を轟かせながら上空を飛ぶだけで、かけがえのないものが一瞬にして壊されてしまう予感に、胸が押しつぶされそうになる。
 遠くに見える原爆のキノコ雲や、爆風によって遥か彼方まで吹き飛ばされてきた物の破片が、絶望的な気持ちにさせる。
 この映画は、太平洋戦争の時代の物語だが、戦争のシーンは最小限に抑えられていて、その分、観る側が、想像したり考えたりする余地を十分に残している。
 戦争の悲惨さを、これでもかと見せつけられると、人間というのは、もしかしたら、悲惨さに麻痺してしまう生き物かもしれない。たぶん、惨い光景というのは、人の心を育てず、どこかで他人事になってしまうからだろう。
 「この世界の片隅に」という映画にも、惨い場面はある。しかし、映画を見終わった後、心を満たすのは、凄惨さではなく、自分ごととしての愛しさや哀しみだ。
 その愛しさや哀しみは、きっと、多くの人の気づきの端緒となるかもしれない。
 経済という言葉が一人歩きしがちな世の中だが、経済の良し悪しは、人の営みを他人と比較して数字化したものにすぎない。
 それに対して、人の営みの実態は、愛や哀しみの織り込まれ方によって一人ひとり違っていて、他人と比較しようがない。

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