二つの時間

 

風の旅人 第40号(6月発行)の企画がまとまった。39号(2月発行)で「この世の際」という特集をやったので、暫くの間、この先にどう進むべきか煩悶としていたのだが、2月11日に山下智子さんの「京ことばによる源氏物語:女房語り/山下智子」を聞きにいった頃から、急激に構想がまとまり始め、「二つの時間/境の旅」という形の企画に辿りつくことができた。

 このテーマの狙いは、ざっくらばんに言うと、私たちが、「あちら」と「こちら」の二つの間を同時に生きていることの前景化。

現代社会は、「こちら」のバイアスが強すぎる。それゆえ、「こちら」(現実)からの逃避としての「あちら」(非日常)が、ディスニランドのように設定されるが、それは、「こちら」の視点で作られたものにすぎない。

 そのように「こちら」からの逃避先としての「あちら」を設定する必要はなく、「あちら」も「こちら」も、ごく日常的に自分の中を流れていて、それをどう感知するかだけの問題だろう。

山下智子さんが女房語りを行っている“京ことばの源氏物語”には、「こちら」から見る「あちら」ではなく、また、「あちら」に行ってしまうのでもなく、「あちら」と「こちら」の同時進行的な、たゆたうような時間がある。

 源氏物語じたいが、そういう性質の表現だが、しかしそれを古典ジャンルに閉じ込めてしまうと、私たちの現実からは一方的に「あちら」の趣味教養物になってしまう。

 源氏物語じたいが備えている「あちら」と「こちら」の同時進行性は、「京ことば」という、日常と歴史的時間が重なる言語、および現在のこちら側の約束事にも通用しながら、現在のこちら側の約束事のなかでは収まりきれない、人間、世間、時間といった、の機微を十分に孕んだ言語によって、今日の社会においても、その感覚を伝えることができる。

 現代人が、「こちら」と信じこんでいるものは、実は、近代合理主義に適った言語で指し示すことの可能な範囲ということにすぎない。

「それがいったい何の役に立つか?」とか、「その仕組みはどうなっているか?」とか、「こういう理由だから、こうなる」とか、「相手がこうくるから、こう対応する」とか。これらは、論理に置き換えやすいので非常に説得力があり、この種の思考の得意な人が、社会的に優位な立場に立ち、こうした思考の癖を蔓延させていく。

 しかし、実のところ整然たる論理で計れるモノゴトは、私たちが生きている全時間の10分の1にも満たないかもしれない。にもかかわらず、人生の節目においてモノゴトを判断して決定していく際に、近代合理主義言語で指し示すことが可能なものを、より重要視してしまう傾向にある。また、多くの人が、そうした判断を重視するがゆえに、社会全体のシステムがそうなっていく。

 そして、社会人になると、モノゴトを考えるために脳のスイッチを入れるたびに、「何の役に立つのか?」いう思考言語が作動するようになってしまう(子供の頃から、そのスイッチを強引に刷りこまれる)。

 結果として、私たちの人生全体の10分の1にも満たないかもしれない近代合理主義に染まった社会的意味が、そこから外れる時間を「無意味化」し、浸食していく。

 理屈ではわからなくても身体がそれに抗うので、時々、息抜きと称して、「あちら側」(非日常)で遊びたくなるわけだが、「こちら」からわざわざ出かけていくものとして設定される「あちら」は、実のところ、「こちら」の忠実な僕をつくるための、ガス抜き装置でしかない。

 ガス抜き装置に頼らずとも、「あちら」と「こちら」は、常に同時進行的にある。おそらく、日本の歴史じたいが、そういうものだったのではないかと思うこともある。

 縄文vs弥生、蝦夷vs大和朝廷、武士vs朝廷、などなど、今日の歴史学では対立的に捉えられることが多いが、こうした対立的視点は、欧米の近代合理主義の見方に慣らされた結果ではないか。

 人間、世間、時間・・・・・など、日本語や日本文化の根底には、の哲学がある。 

暖簾、障子、縁側、濡れ縁など、日本の古来の住まいは、間を仕切るところに、絶妙なる間合いがある。

間の仕切り方にこそ、日本の知恵がある。それを日本の思想、宗教と言ってもいいくらいだ。

 の捉え方を、古来の日本の感覚に戻さないと、日本の歴史文化は見えてこない筈であり、頑固一徹で、偏狭な視点で自分の主張ばかりがなり立てるタイプの学者や評論家には、日本の歴史や文化の本質は見えてこない気がする。

 現代社会は、私たちの物の見方を揃えるように一貫した教育を行い、全ての人が共有できるように時間を標準化し、規格化された檻のなかで人間を管理しようとする。

 そうした便宜上の規格を、いつのまにか普遍の基準であるかのように錯覚し、その枠組みから外れられないという強迫観念によって、人の生と、人が構成する社会に歪みが生じている。

 枠組みを管理したい権威組織は、枠組みから外れるものを見下し、嘲笑し、時には憎悪し、躍起になって偏狭な視点を押し付けてくるが、そうした暴力を軽くかわせる視野の広さと心の柔軟性を確保しておくことが、健やかに生きるためには不可欠だろう。

 この世の全てのモノゴトは、別々の時間を積み重ねており、美しく調和のとれた世界は、それらの異なる時間が、絶妙に釣り合っている。

 一方から他方へと流れ、他方から一方へと流れる時間。この二つの時間が釣り合うことによって、個々の生も、それを取りまく世界も、あらためて美しく輝き出す。

 源氏物語は、主語が省略されて誰のことを指しているのかわかりにくいけれど、おぼろげに言葉を重ねていくことで、だんだんと世界が立体化して、あらわになってくる。

 そうした物語を、既に私達の現実からは完全に「あちら側」になってしまっている古典的言語で語り聞かせて、「日本人なのだから、その機微が理解できる筈だ」と恫喝されても、無理がある。

 京ことばは、実にそのあたりの”間“を、うまく仕切れることばであり、その道具を暖簾のように使うことで、「現代」と「古代」、「こちら」と「あちら」の境を、あるようでないようで、という感覚で視点を動かしながら、同時進行性を感じさせることができる。

 このことは大事なことを示唆している。近代合理主義を批判するあまり、それに背を向けてしまい、日本古来の伝統を大切にするなどと主張して閉じこもってしまうのは、近代合理主義によって作られた建て売り住宅の狭い個室の中に閉じ籠ることと同じだろう。

 私達の現実社会が、近大合理主義に覆われてしまっているのであれば、そのことは無視できない。大切なことは、近代合理主義世界と、近大合理主義的価値観によって見失われたものの“間”に、いかにして暖簾のような風通しのよい仕切りを設けるかということなのだ。

 そして、今思うと、『風の旅人』という雑誌名でこれまで制作し続けてきたのは、実は、こういうことだったのだと改めて認識することになった。

 「二つの時間/境の旅」という40号のテーマこそが、これまでの「風の旅人」全体の時間を貫く根本的なテーマだったのだ。

風の旅人は、創刊の頃から、「もののあはれ」の雑誌だと言われたことが何度かあるが、「もののあはれ」は、単なる気分ではなく、「むこう」と「こちら」の二つ
の時間を同時的に生きる知恵のことを指すのではないかと、今の私は思う。知恵というものは、気分だけでは成就せず、経験と訓練が必要になる。

ちなみに、山下智子さんは、「京ことば源氏物語」の女房語りを、「もののあはれー源流への旅」と位置付けている。編集部に届いた一枚のチラシに書かれていたこの一言が、私を誘ったのだが、その時点で私は、これが、私の知っている山下智子さんの活動だとはわからなかった。

 山下さんは、私が「風の旅人」を始める8年くらい前に、何度か、私が企画するイベントに協力していただいた。その頃、彼女は、チュニジアンダンスに打ち込んでいた。

 チュニジアンダンスは、ベリーダンスのように官能的なダンスというより、大地の踊りだ。

 芸術表現やショーダンスではなく民俗舞踊。土地に生える草のように、根をただ感覚することから吸い上げるものであり、見た目は違うけれど、源氏物語を、うぶすなのことばで語るという行為と、どこかで共通しているところがある。

 現在は、凛々しい着物姿で「源氏物語」の女房語りをする彼女と、ほぼ15年ぶりに会った時、「あのダンスは、自分の求めているものとは、どうやら少し違う、と思ったので、辞めた」と屈託なく言っていた。

  この”違和感覚”は、私でもなんとなくわかる。どんな表現も、それじたいが目的なのではなく手段にすぎない。その手段を通じて実現していくものこそが自分
にとって大切であり、手段がそれに相応しいものかどうか常に自分自身に確認しながら、違和を感じたならば執着せずに、新しいスタイルを模索していくことも 必要だろう。もちろん、中途半端な取り組みだと何も見えてこないので、一度決めたからには、ある期間、無我夢中でやることも大事だが。

 チュニジアンダンスと「源氏物語の女房語り」への取り組みは、まったく別のものだと思う人もいるだろうが、私には、どちらも、近代合理主義と、それが見失わせたものとの“間”の暖簾のような間仕切りを模索する「境の旅人」の試みであり、同じものに感じられる。

 「境の旅人」は、自分が関わっているものに対する頑迷なる執着はない。それが無くなれば自分の全てが無くなってしまうという自己執心が活動の動機にはならず、この世界を生きていく上で、自分にできる大切なことを探し求めて、暖簾のようにユラユラと揺れ続けることになる。

 私にとっても、「風の旅人」は境の旅の一つの道程にすぎず、ユラユラと揺れ続ける性分を、完全に抑え込むことはできない。「自分の関心ごとと、やるべきことは、これでよし」と明確な線を引くことができず、また新たなスペースに暖簾を垂らしたくなってしまう。ただ移り気で、飽きやすいだけかもしれないけれど。