第1015回 進化とは?

 12月1日(金)、京都の風伝館で、「進化とは?」という内容で、信頼資本財団の熊野理事長と、そもそも談義を行います。
 環境を生き抜く遺伝子が後世に伝えられていくのか、もしくは、環境に応じて遺伝子は自らを変えていくのか。
 これからの人類は、ダーウィンの説くように「適者生存の法則にそって強いものが子孫を残していく」のか。それとも、今西錦司の説くように、「環境とのアンバランスを修復するために自らを変えていく」のか。
 ダーウィンの『進化論』のように、突然変異がランダムに起こって、そのうち生存に適したものが生き残って子孫を残すのであれば、人類は環境の中で勝ち残るために、ひたすら競争し続けなくてはならない。それが生きることなのだと開き直って。
 現代社会は、ダーウィンの『進化論』に支配されていますが、この『進化論』に代わる生命観を持たなければ、近代の愚行も終わらないでしょう。新しい生命観のための、「進化」についてのダイアローグです。

【開催概要】
日時:12/1(金)19:00-21:00
会場:風伝館
参加費:無料
※寄付の受付を行っております。
お申込み:以下URLよりお願い致します。
https://www.facebook.com/events/228955470975370/
【主催】公益財団法人信頼資本財団
【主催者住所】京都府京都市上京区室町通丸太町上る大門町253番地
【主催者電話番号】TEL:075-275-1330 FAX:075-275-1340
 
 現代社会において、ポスト資本主義、定常型社会の構想、経済成長なき社会発展は可能なのかという議論が少しずつ広がってきた。右肩上がりの経済拡大を推し進めていく結果として、地球資源の限界、環境破壊などが誰の目にも明らかになってきたうえ、これまでのような成長戦略が人間を幸福にするのかどうか疑わしいと考える人が増えているからだ。
 豊かさとは何なのか?という問いが、学問分野だけでなく、表現分野、社会活動分野などで発せられている。しかし残念ながら、教育現場は相変わらず資本主義の競争社会において勝ち残れる人材を多く排出することがミッションになっている。教育に携わる人たちが、物質的な豊かさよりも心の豊かさの方が大切だと思っていても、教育界全体として、生徒の将来を考えて社会から落伍させない責任があると考えているからだ。
 なぜそういう責任意識を持ってしまうのか? それは、教育現場が、ダーウィンの『進化論』に感化されているからだろう。与えられた環境の中で最適なパフォーマンスを発揮できるものが勝者となって環境から多くの恵みを受け、そうでないものは生き残れない、つまり悲惨な結末が待っていると考えてしまっているからだ。
 しかし、私たちの足元には日本発の『進化論』がある。それは今西錦司が唱えたものだ。西洋べったりの学会では異端として無視されているかもしれないが、過去と未来を俯瞰してつなぐ『進化論』としては、こちらの方がダーウィンの『進化論』よりもはるかに説得力がある。今西進化論は、ポスト資本主義を支える重要な生命観となる可能性を秘めている。
 ダーウィン進化論は、突然変異はランダムに起こり、その中で、生存に適したものが子孫を残していった結果として今日の世界があり、未来もそうだろうと説く。それに対して、今西進化論は、突然変異は起こるけれどランダムではなく限定的であり、環境との間にアンバランスが生じた時に、その解消のために、その解決に適した突然変異を選び取って自分を作り変えることによって環境とのバランスを取り戻していくという考えに基づいている。
 ダーウィンの進化論は、極めて機械的であり、遺伝子に主体性や目的指向性はなく、環境によって生きるための方向性を選択させられるわけだ。
 我々の人生に照らし合わせて言えば、「こういう時代に生きているのだから仕方ない。親や学校の先生が言うように、有名大学に入って、有名企業に就職しろ、それが世間も認める幸福の道なのだから、それに向けて努力するしかない」ということになる。ダーウィンの『進化論』は、個人を組織の歯車として働かせることで成長した資本主義経済を支える生命観、人生観だった。組織の中においても、組織の慣習その他にうまく適応できる者が出世して、彼らが実権を持つようになると、その組織は、ますますダーウィンの進化論の支持者となり、生き残るためにという大義名分で競争を煽り、競争を勝ち残った者を英雄扱いし、自らもその英雄の一人として権威づけをし続けるために、組織の価値観を維持しようとして手段を選ばなくなる。企業も学会も政治も、悲しいかな、芸術分野においてさえ同じ状況にある。
 (ちなみに、ダーウィンは、全ての進化が自然淘汰によって説明できると考えていたわけではなかった。彼は、「この偉大にして驚嘆に値する宇宙が、単に盲目なチャンスの結果として生じたものとは、私にはとうてい考えることができない。」という言葉を残している。にもかかわらず、資本主義社会の発展の中で自らをダーウィンの後継者だとみなす正統派進化論者が、進化は自然淘汰を介してでなければ行われないと頑迷に主張するようになっていったのだ。)
 そのように一種の原理主義となったダーウィン進化論に対して、今西進化論は、進化が環境によって選別された結果であるとは決めつけず、進化の方向性には、主体性や目的指向性があると考える。
 これはどういうことか? 私なりの解釈では、たとえば、ライオンは、強力な牙や爪を持っているから最強になれたわけではなく、何かしらの原因で肉食を選ぶことになった生物が、環境とのバランスを整えていく結果として自らを少しずつ変えていって、現在のような爪や牙や走力に至ったということになる。ライオンは、数においても、また生存の危うさにおいても、シマウマたちより優っているとはとても言えない。シマウマたち草食動物が、草を効率よく消化するために長い腸を獲得したように、ライオンも、肉を得るために鋭い牙や爪を獲得しただけのこととなる。そして、ライオンがシマウマよりも速く走れないのも、ライオンとシマウマのお互いが生き残っていくため、ちょうど良い走力に落ち着いたということだ。
 そして、ダーウィン進化論と今西錦司進化論の根本的な違いは、ダーウィンが個体を単位に進化論を考えているのに対し、今西は、種全体を単位に考えていることだ。
 今西進化論によれば、種の中の個体は、運にも左右されて目的指向性を持っていたとしても全てが成就できるわけではない。しかし、一つの種の中には似たような個体が多く存在し、他の個体の生き様から多くのことを学習したり生き様を引き継ぐようなものも出てくる。そして、無数の個体の挫折を乗り越えて、種全体として、環境に応じた方向性に進んでいく。それが、現在の生物多様性の姿だ。今西錦司はそう考えた。
 ここからが私の私見だが、私たちの遺伝子は一つひとつの個体を不完全なものに作っている。他の何かと結合することではじめて生物の使命を成就できるかのように。不完全で満たされないからこそ完全を求めて働き続ける。それが生命の核に仕組まれた冷徹なプログラムだとすれば、不完全ゆえの不安定さと、不安定さの中でもがき苦しむことは、生物の宿命のようなものだろう。
 ライオンの走力はシマウマに劣り、だから、いくら鋭い爪を持っていても狩がうまくいく確率は非常に低く、いつもお腹をすかせている。
 そうした宿命の中で、最終的に形ある成果に到達できない生物も無数にいる。たとえば、海に下った何万匹のサケの群のうち、川を上り、産卵の目的地まで到達できるのは100匹に1匹もいない。目的を成就できなかった個体は、屍の山を築いてバクテリアに分解され、世界の隅々に還っていく。他の生き物の餌となったり、水草の栄養分となったり、水草から連綿とつながっていく他の生物たちの何かしらの糧をなって。サケに限らず、ほとんどの生物の個体が、努力したことの見返りを十分に得ることなく生涯を終える。しかし、結果として目的を成就できずに散っていった無数の生物の個体が残した軌跡が、時とともに姿を変え、めぐりめぐっていく。
 たとえ不完全なまま終えたように見える営みであっても、何かしらの形で他のものとの関わりがあり、遺伝子を未来に送る役割を果たしているのだ。
 おそらく生命というのは、個体の中に完結しているものではなく、世界全体に満ちて、世界の中に存在する事物や現象に働きかける力のようなものなのだ。そして、自らに働きかけてくる力を感受することで、自らの中に新しい働きが生じ、新しい何かが生起される。その関係性が生命というメカニズムの本質ではないか。
 何かに働きかけられ、何かに働きかけていく、そうした運動の繰り返しのうちに、新たな統一体のようなものが生まれるが、それもまだ完全ではないゆえ、細部も全体もとどまることなく働き、働きかけられ、その影響が大きくなったり、小さくなったり、絡み合ったり、反発したりしながら、より複雑に組織化され、それでも決して終わることなく、働き、さらに働きかけられ、時とともに個体や組織の繁栄と衰退と滅亡を繰り返しながら、プロセスを多層に積み重ねていく。
 そのように目的を成就できるものも、そうでないものも、世界の仕組みの根本のところでは差異がない。
 ミツバチの働き蜂は生殖を行わずに女王蜂の世話に勤しむだけで短い生涯を終えるが、自分に受け継がれている遺伝子と、自分の母親である女王蜂が新たに産む女王蜂や雄蜂は、自分と同じ遺伝子なのだ。働き蜂は、働き蜂なりの方法で、過去から未来へのつなぎを行っている。
 生物のどんな営みも、自分以外の生物に何かしらの影響を与えている。だとすれば、進化論は、ダーウィン進化論が唱える生物の個体ではなく、今西錦司進化論の種単位でもなく、生物圏全体として、何かしらの主体性と目的指向性があると考えてもよいのではないか。個体の情報を伝えるためだけではなく、種としての情報を伝えるためだけでもなく、生命圏全体の情報を過去から未来へと伝えるために。
 そして、その伝えるべき情報のもっとも大切なものは一体何か。それを考えることが、私たちが今を生きている意味なんだろうと思う。
 それはきっと、これが正しいという一つの答えを得て安心したり、自分の気に入らない答えを消し去ろうとすることではない。
 不完全なままでも結果に関係なく懸命にもがき続けること、それが生きることであるという”情報”を、ミツバチをはじめ、全ての生物の必死の姿が、送り続けている。