第1023回 ジェノサイド(集団殺戮)に対するダイアモンド博士の考えに対する違和感。


 昨日の夜、寝る前に歯を磨きながらテレビのスイッチを入れたら、ジャレド・ダイアモンド博士が講義する番組が始まるところで、それは、ジェノサイド(集団殺戮)をテーマにしたものだったので、思わず、見続けてしまった。
 ジャレド・ダイアモンド博士は、「銃・病原菌・鉄」でピュリツァー賞を受賞した人で、「世界最高の知性の一人」などと宣伝されていたので、この本と、もう一冊他の本に目を通したのだけど、その時、あまり大したことを書いていないなあ、なんでこれが世界最高の知性なの?という印象だった。
 昨日の番組の内容も、ひどいものだった。
 番組では、冒頭から、20世紀になってからの様々な集団殺戮が列挙された。ドイツ人によるユダヤ人の虐殺、ルワンダボスニアカンボジアといったところが示されたが、博士の所属するアメリカ合衆国が行った原爆投下は出てこなかった。原爆は、集団虐殺とは別のものと考えているのだろうか。
 博士は、番組の中で述べているように、「集団殺戮の起源は動物にある」と考えていて、その説を強調するために、博士は、チンパンジーなどの殺戮行為を一つひとつ取り上げていく。その中には、肉食動物が草食動物を殺して食べることも含まれる。博士は、人類の集団殺戮もその延長線上に位置付けているので、食料や資源などを奪うために、人は人を殺すといった話が展開される。そして、「シリアスな話が続いたけれど、希望もあるのだよ」と学生たちに語る。
 博士が口にする希望とは何かというと、20世紀になって虐殺で殺された人の数は膨大だけれど、ニューギニアなどの戦闘行為などで死んだ人の数に比べて、人口比率では少なくなってきていると言うのだ。つまり、目を背けたくなるような集団殺戮がテレビなどを通じて紹介されるけれど、それは我々の全人口のごく一部で、その他大勢は無事に生きているでしょ。人類は進化しているのだよと。
 あまりにも話の展開が凡庸なので、ちょっと調べてみたら、この博士は、もともとは生理学者として分子生理学の研究をしていた人で、ニューギニアでの体験から人類の発展について興味を持ち、その考察が『銃・病原菌・鉄』という形になって、この本が評判になったために、それ以降、よくあるような文明の盛衰についての考察をまとめた『文明論』の本をいくつか出しているようだ。そういう経緯はどうでもいいが、「銃・病原菌・鉄」を読んだ時に、あまり深みがないなあと感じたのは、あらかじめ自分が組み立てているストーリーに添って、それを裏付ける証拠だけを集めて構成し結論付けているだけという印象が強かったからだ。
 そして、そのストーリーも、学問的な確かさとは関係なく、知的に受け入れられやすいものになっている。”知的に”といっても、本当の意味の知性というより、たとえば上流階級もしくは、それに憧れる人の社交の場で、ワイングラスを片手に語るうえで、ちょっと優越感に浸れるような、世界の現状に即した内容で、説明しやすく、深刻になりすぎることはない知識情報と教養(そんなものは本当の教養ではなく、ファッションみたいなものだけど)。
 「人類は、あいかわらず虐殺とかやっていて、ひどいものだよね。でも、きみは知っているかい? 過去に比べて、人口比率の上では、殺される人の数は減っているんだよ。たとえば、ニューギニアではこれだけの人が死んだ。それに比べて、ドイツの人口はこれだけで、そのうち殺されたのはこれだけ。パーセントでは、ニューギニアの方がひどかったんだよ。問題は解決されたわけではないけど、人間は進化しているんだよ。」と。
 ダイアモンド博士は、福島原発事故後の2012年1月の朝日新聞のインタビュー記事で、「温暖化のほうが深刻、原発を手放すな」と主張し、原発肯定の姿勢を取ったらしいが、この人の思考論理だと、そう考えても不思議ではない。だから、原爆による殺傷も、虐殺に入っていない。虐殺に入れているけれど、たまたま口に出なかっただけとも考えられるだろうけれど、仮にそうだとしても、近代の集団殺戮のことで、原爆のことが真っ先に出てこないことが、この人の知的ストーリーの浅さを露呈している。だから、これまで起こった人類の殺戮を、全人口に対する死んだ人のパーセンテージで計るという発想になる。
 肉食動物が草食動物を襲うことや、先住民族が槍や弓矢で人を殺すことと、ナチスによるユダヤ人虐殺は、同じ土俵のことだろうか?
 ”人間が進化している”というのは、殺害数のパーセントが減っていることで証明できることだろうか。
 近代文明の成果の一つである効率化を進化の形態とするならば、その進化によって、ボタンに指を載せるだけで、一瞬にして何十万人、何百万人の人を殺すことができるようになっている。その行為は、自分の肉体と相手の肉体をぶつけ合い、自分も死ぬリスクを賭けてのものではない。ライオンがシマウマを襲う時も、必ず勝てるわけではなく、油断すると、強力な後ろ足で蹴られて致命傷を負う可能性がある。自然界は、人類史よりもはるかに長い歳月をかけて、生態系のバランスが大きく崩れないように、それぞれの個体の能力を絶妙に整えている。だから、強いライオンの数が増えすぎて弱いシマウマが絶滅するということにはならなかった。
 現在の人類が考えなければならないジェノサイド(集団殺戮)の恐ろしさは、そうしたバランスを無視するところまで進化させられた効率化が、人間の想像力の限界を超えた力を持ってしまっていることだ。それを実行すると、いったいどういうことが起こるか想像もつかない。計算はできるけれど、確かなイメージを共有しずらい。計算によって導き出された数字によって、ある程度は想像できて牽制はできるけれど、リアリティが弱いために、権力者が、引いてはならない引金を引いてしまうかもしれない。
 たとえば北朝鮮アメリカの問題にしても、いくらアメリカが先制攻撃によって北朝鮮の軍事施設を爆撃したとしても、韓国や日本で最初の数日のあいだに100万を超える人間が死ぬと算出はされている。100万人の数字のリアリティを、どれだけ人は感じることができるだろう。それでもパーセントとしては、100人に1人だから、先住民の戦闘のように、戦いによって10人に1人が死んだケースよりマシだと言えるだろうか。
 ドイツのユダヤ人虐殺の戦慄するような怖さは、人が人を殺すことの残虐さだけでなく、人を殺すために冷徹に、効率よく準備して、計画して、できるだけ無駄を省くように考え、大量の人間を工場のような設備に運び、規則的に殺していったことだ。しかも、殺しに加担した人たちは、野獣のように凶暴な顔つきで事を行ったのではなく、官僚的に、事務的に、それを行った。合理性を進化させた人間の集団殺戮の怖さは、その冷静さにある。
 人間は、理性があり冷静になれるから動物や先住民よりマシで、だから希望があるのではなく、むしろ、その理性と冷静が、狂気につながる。
 人類のジェノサイド(集団殺戮)を今日の問題として考えるならば、動物との比較ではなく、近代人が身につけた理性と冷静について、もっと掘り下げる必要がある。理性は、”計算高い”ということでもあり、冷静は、”容赦がない”ということにもつながるのだから。計算高く、容赦のない仕打ちほど、恐ろしいものはない。