21世紀の人間学

 元旦は例年どおり明治神宮に初参りに行って、森の中を歩く。

 おみくじは、いにしへの人のこころにならへ と告げる。

 昔、會子という人は、「人のために忠実か」、「友と交わって信実か」、「修養を怠っていないか」と、毎日三度、我が身を反省した。人はとかく、うぬぼれがちだから、このいにしへ人の心に習いなさいとのこと。

  年初の日記は、21世紀の人間学について思うところを述べること。

 現在、「風の旅人」に連載いただいている前田英樹さんが、2006年から立教大学に新設する「現代心理学部」の準備室長をつとめている。

 この学部は、「心理学科」「映像身体学科」の2学科からなり、従来の心理学のワクにとらわれず、「心」「身体」そしてそれを取り巻く「映像」といった3つの側面を切り口に、21世紀の「人間学」を構築していくことを目指している。

 なかでも興味深いのは、「映像」を、心、身体両方に大きな影響を与えている重要要素と位置づけていることだ。

 確かに、20世紀に、写真から映画、テレビ・ビデオ、さらにコンピュータなどのデジタル画像へと急速に発達し、私たちの生活環境の大きな部分を占めるようになった。現代人を理解する上で、「映像」は重要な役目を負っている。しかし、私たちは映像文化を当たり前のこととして受け止めており、人類史のなかでも極めて異例なこの事態に対して、深い考察がなされていないように思う。

 前田さんは、日本と西欧の文学、思想・哲学、芸術に深く切り込んでいる人だが、学問のための学問では決して無く、現代を生きるわれわれのなかに深く根ざす問題として、それらの分野で考察の枝を広げている。であるから、そのなかに「映像」を含めて考察していくことは、前田さんの志向性のなかで必然のことなのだ。

 さらに、前田さんが、この21世紀の人間学を掘り下げていくために、サイエンスとフィロソフィーとアートという三つの視点によって、多角的、総合的に行っていく必要性を強く感じていることに、私はとても共感する。

 20世紀までの人間学の方法論は、膨大な「知」を山のように積みあげていく方法をとり、その巨大な山の前で、研究者自身も含めて途方に暮れるしかなく、その成果を、私たちの人生に結びつけることは難しかった。

 しかし、前田さんが考えていることは、人間存在の形而上学的な意味を、言語化された知識の組み合わせだけで追究するのではなく、一人一人が身体的に体得できて納得感のある新しい「観念」を育むことで実現しようとしており、その育みは、サイエンスとフィロソフィーとアートを融合した新しいフィールドによって、より可能になるのではないかと私も思う。

 などと勝手な憶測で書いているのは、前田さんが、この新学部で目指そうとしている方向と、「風の旅人」の方向が同じようなもののような気がするからだ。

 どこまで、そしてどの深さまで同じなのかわからないが、だいたいのところで同じであることは、間違いない。前田さんとお会いして話しをする際に、そのような手応えを強く感じるし、前田さんも、今なぜ「風の旅人」と出会ったのか、そのシンクロの不思議さを話していた。

  近代以降、人間は知識文化を飛躍的に発展させた。その結果として、頭で知っていることや考えていることと、自分の身体活動との間に、大きなギャップができた。

 と同時に、心が崩れた。現代社会では、この「心」の崩れに伴う現象が至るところで起こっているが、それに対応するために、「心」を科学的な分析すなわち頭で理解して整理しようとする人も多い。

 しかし、先日、「心の時代」というトピックで書いたように、「心」というのは、野球選手のバッティングフォームのような「身体的な構え」というのが、私の解釈だ。

 自分が生きていくために対応しなければならない世界(ボール)と、自分の活動(バッティング)とが全く噛み合わなくなると、当然ながら、バッティングフォーム(心)を崩す。フォームが崩れると、簡単なボールさえ打てなくなる。

 そういう状態に陥った時に大事なことは、フォームの分析ではなく、どのようにしてフォームを修正していくかなのだ。

 イチローや松井なら、どうするだろうか? 彼らは部屋に閉じこもって自分のフォームを鏡に映して、いろいろ分析する前に、相手を見ることを重視するだろう。相手のピッチングフォームを見て、球筋を執拗に見るだろう。その残像がしっかりと頭のなかに残り、リアルなものになるまで見ることを徹底する。

 今日の朝刊でもヤンキースの松井が今シーズンに臨むプランについて、「ボールを長く見る意識」を大事にし、ボールを「見切る」という感覚にまでもっていくと語っている。球種を絞るとか、ヤマを張るとかという意味ではなく、ボールを長く見られるから、確信して見切れる。それは、「もらった!」という感覚だと説明している。 

 理に適ったバッティングフォーム(心の構え)は、“相手を見ること”の上に成り立っている。

 しかし、悲しいことに現代社会でないがしろにされているのは、人間の見る力なのだ。

 現代の大衆消費社会のからくりは、人間の眼力を奪う方向に働いており、人間から眼力を奪うことで、この社会の構造は維持されている。

 派手な広告や宣伝などの力によって人々を煽り、購買に走らせるという仕組みはその典型であり、早い買い換えの促進とか、内実が伴っていないモノを流行のデザインやカラーで売りつけることなど、その実例は枚挙にいとまがない。

 もちろん、そのような消費活動で人生がハッピーになれば問題ではないが、実際には、この国は異常なほど消費者金融が繁栄しているように、眼力を奪われた消費生活によって、一人一人の営みは少しずつ蝕まれている。

 エントランス付近だけ高級な石素材を使用して客を惹きつけ、背後の見えにくいところは全て手抜きをしているという建築・不動産界の悪質な手口は、その最たるものだ。マンションの場合は、高額で大きな社会問題になっているが、飲食店やファッションその他、同じような手口はこの国に蔓延している。

 眼力を奪われることによって、人間一人一人が少しずつダメージを負い、そのダメージの蓄積によって、社会全体の見た目の繁栄(GNP、日経平均株価、企業の時価総額など)がつくられる。それが今の日本社会の実状なのだ。

 しかし、そもそも“人間の眼力”というのは、いったいどういうものだろう。

 これについては、単に網膜に像が写るといった視力の問題ではなく、目利きとか見切るといった言葉で表される力のことであって、この力については、いろいろと考える要素が多い。

 一つは、人間ならではの空間把握能力。

 例えば、ライオンがシマウマを見る時、背景にキリマンジャロを同時に見ながら、視角に入る全体空間のなかで、「あそこにシマウマが5頭いるな、あっちにはバッファローが3頭いるな、自分のいる所から判断すれば、こっちの方がいいかなあ」などと思って光景を見ているだろうか? ライオンに聞いてみないとわからないが、彼らの眼は、そのように見ないのではないかと私は思う。自分と対象を含む全体像と、全体のなかの自分の位置づけを見る眼力は人間特有ではないだろうか。

 二つ目が、自分に直接関係ないもの同士の関係を見破る力。たとえば、自分が好きでもないAさんとBさんが深い仲にあるということを見て推し量る眼もまた、人間ならではのものだという気がする。

 三つ目は、AとBとCのなかから共通要素を見いだして、普遍を抽出する能力。異なる外観でありながら、それらに共通するパターンなどを掌握し、表層とは別に、根元的なところで全てのモノゴトに共通する力があるのではないかと予感する能力も人間ならではのものだろう。

 これらの見る力によって、人間は、社会の枠組みを超えたところの世界のエッセンスを感じることができる。

 しかし、今日の社会では、そのような人間本来の見る力を発揮できずに人間は生きている。

 その一番大きな原因は、テレビ的な映像が氾濫し、それに慣らされてしまっていることだろう。

 テレビ的な映像の特徴は、映像を見せると同時に説明的な言葉を与え、映像を言葉の枠組みの中に整理して固定していくことだ。

 言葉の一般的特徴というのは、人間が既に認識していることを指し示すことである。その言葉の範囲内で映像を見ることを強要されると、人間の眼力は眠らされる。見ること本来の力である世界のなかの位置関係や、モノゴトの関係性や、根元的なことを推し量る力が損なわれてしまうのだ。

 今日のテレビ的な映像は、見る側の価値観をなぞったり、欲求に媚びたものが多い。一見、硬派の装いのドキュメントや教養モノも同じ構造の中にあって、我々が、既に言葉で認識している「価値」の上を映像でトレースしているだけのものが多く、すなわち、のどごしの良い=判りやすいものが重宝され、それらは、人間の眼力を損なう性質を持っている。

 また、テレビではなくドキュメント映画や一般映画などにおいても、タレントの魅力だけでアピールしたり、ナレーションやセリフなど言葉の力によって場面を動かしていく映像が多く、見る力がなくても、ストーリーを追えてしまう。

 さらに、たとえば演劇や古典芸能やお座敷芸などを映像化する場合も多いが、映像を通して伝えられる言葉と、実際の演劇やお座敷で語られている言葉が別の性質になることに無自覚なことも多い。

 三次元空間のなかに演じる側と見る側がいる時、見る側の視線は、その三次元空間のどこに持っていこうが自由である。舞台のそでに眼をやったり、他の客の反応に眼をやったりできて、場面の盛り上がりなどに応じて、主人公に視線を注ぐ意識が強くなったり弱くなったり、自由意思を介在させることができる。

 しかし、そうした三次元空間での出来事を二次元の映像に変えて、カメラを主人公にクローズアップさせると、見る側は、限定された枠組みのなかで主人公と一対一で向き合わされることになり、主人公が発する言葉を無理矢理に受け止めさせられてしまう。

 こうしたことの陳腐なケースは、ワイドショーなどで、事件の被害者にマイクを向けたり、地震などの被災地の光景の前にキャスターを立たせてコメントを発するシーンなどに顕著に現れる。

 私たち人間が生きて呼吸をしている世界は三次元空間であり、二次元の映像に入りきらない様々なコトやモノがある。にもかかわらず、二次元映像のなかで語り手をクローズアップにして、そこに断定調の言葉を結びつけてしまうと、世界がそこだけで完結してしまう危険性を持つ。

 こんなケースは他に幾らでもある。戦争現場の報道などで、衝撃的な絵をつくりたいがために、燃え上がるビルの前にキャスターを立たせて、「多くの犠牲者が出ました」と語ると、その国の三次元空間全てが大災難に陥っている印象を与えるが、実際にその国を訪れてみると、そのビルから100メートルも離れていないところで子供が元気に遊んでいることがある。

 本当にビルが破壊されたり犠牲者が出たとしても、人間が生きる三次元空間のなかで他の様々なコトやモノとの関係性のなかに生じている出来事と、映像という二次元空間のなかに押し込められてクローズアップされる「事実」とは、大きな乖離がある。現在の映像表現の担い手のなかで、そのことに自覚的な人はどれほどいるだろうか。

 動画や静止画にかぎらず、また、雑誌編集などにおいて写真を使う場合でも、二次元映像の効用と弊害について自覚的でなければならないと思う。

 二次元映像の弊害は上に述べたようなことだが、その効用は、眼力のある映像表現者が切り取った世界と向き合うことで、私たちの現実認識がいかに狭い観念の産物なのか、気づかされてくれることだろう。

 例えば、私たちは、「魚」とか、「イスラム教」とか、「自然」とか、「愛」とかの言葉を聞くと、それなりのイメージを連想する。そして、そのイメージに基づいて現実を認識している。そのイメージが頻繁に出現すると、身体的に体験する前に世界をわかったつもりになってしまう。しかし、実際の世界は、そんなに底の浅いものではないから、それを知らないまま生きていると、痛い眼に合う。

 だから、私たちが言葉でイメージする(固定観念)ものを超えた映像体験は貴重な人生体験でもあるのだ。

 映像の力に触れて、自分のなかにあった世界に対する固定的なイメージが崩される。そのようにして、新たな認識を得る。新たな認識の獲得こそ意識の地平の広がりであり、世界の広がりなのだ。のどこしの良い=判りやすい=凡庸な教養文化映像からは、そうした体験は得られない。

 そして、映像というのは、言葉のように固定した意味を持たず、においのように希薄なものでもあるから、その効果を損なわないような見せ方も大事になる。

 映像の見え方は、編集や構成によって大きく変わる。映画、ドキュメント映像、写真集、雑誌において、編集や構成の仕方によって、内容はまるで異なったものになってしまうだろう。

 適切な編集をするためには、映像の効用と弊害について、強く自覚していなければならない。自覚していても、映像制作者は、熱くなって没頭すると、映像の二次元世界のなかしか見えなくなってしまうことが多々ある。そのため、自分と自分の作品と自分が本当に実現したいことを相対的に見える位置に、自分を置いておかなければならないだろう。

 「映像」に関する話しが長くなってしまったが、現在、人間の心(バッティングフォーム)が崩れていて、それを修正するためには、イチローや松井のように、見る力を大事にしなければならない。そのための鍵を握っているのが、映像との付き合い方だ。映像を見る側も作る側も、そのことを知っていなければならないだろう。

 21世紀の人間学は、知識の堆積ではなく、人間の見る力(推し量り、見切る力)によって立て直されるのではないかと私は思う。

 見る力が、世界(相手の投げるボール)と、身体活動=生きていくこと(打ち返す行為)との間をつなぐフォーム(心)を整えていくうえで、大切なことになる。

 もともと、日本人は、こうした”世界の見切り”の上に文化をつくりあげてきた。

 ヤンキースの松井は、今シーズンに賭ける思いとともに、理想のバッティングフォームについて次のように述べる。

 「自分の軸を大切にする。軸を動かさないで回る」と。

 ここで表現されている型は、眼る力と心技体を一つにして、ボールに対応する術を示している。

 相手の投げるボール(世界)を追いかけてしまうのではなく、球種を絞るとかヤマを張るとかでもなく、ボールをできるだけ長く見て、自分の軸を動かさずに回ること。ボールを見切ってバットの芯に当て、遠心力でボールを遠くまで飛ばすこと。

 この極意は、人生にもそのまま当てはまる。

 20世紀の学問は、ボール(世界)にバット(技術的道具)を当てることが優先され、そうなると、手を出してはいけない球(原子爆弾などいろいろある)にも、バッドが出てしまっていた。つまり、松井の言葉で言うと、徹底されておらず、その結果、フォーム(心)を崩し、ボール(世界)に対応して生きることができなかった。

 21世紀は、その反省に基づき、松井の極意のように、「見ることを基本に心技体を一つにして世界に対応すること」を目指していかなければならず、そうした学びを促進する人間学が必要になるのではないだろうか。