芸術の自由

 元旦に書いたことの続き・・

 相手の投げるボール(世界)を追いかけてしまうのではなく、球種を絞るとかヤマを張るとかでもなく、ボールをできるだけ長く見て、自分の軸を動かさずに回ること。ボールを見切ってバットの芯に当て、遠心力でボールを遠くまで飛ばすこと。

 この極意は、人生にもそのまま当てはまるし、絵画や小説や映画などにも当てはまるのだろう。そして、それらの芸術を実現していく基本は、人間ならではの眼力だと思う。

 全体のなかの部分の位置づけを見い出すこと。モノやコトの関係を推し量ろうとすること。現象に囚われず、その背後にある本質を見抜こうとすることなど、世界を見ようとする意思なくして、芸術はあり得ない。

 大リーグでプレーする際、相手に関係なく自分流を貫くといってバットを振り回す人は、一見、自由なように見えるが、けっきょくのところ相手のボールに翻弄されるわけだから、とても不自由になる。

 それに比べて、イチローや井口は相手に合わせてバッティングフォームを変えたわけだから、一見、不自由なことをやっているみたいだが、結果的に、ボールに対して自由に振る舞うことができる。また、松井の言葉のように、ボールをできるだけ長く見るというのも、辛抱しなければならないという不自由さがあるみたいだが、辛抱すからこそ、自由にボールを打つことができる。堪えきれずにボールにバットを当てにいって体勢を崩し、相手の思うように打ち取られてしまうことは、とても不自由なことなのだ。

 どんなボールでも、自分の軸を動かさずに回れば、自由に対応できる。

 これと同じことが表現活動にも現れる。

 不自由な表現活動というのは、世界を充分に見ようとせず(現象の背後を推し量ろうとせず)、自分流という自己顕示欲のパフォーマンスをしたり、世界の表層に対応しようとして構えを崩し、その結果、手を出してはいけないところに手を出して、いっそう構えを崩すという悪循環に陥ってしまう。

 自由な表現というのは、空間のなかの個々の位置づけや、個と個の関係や、異なる個の背後にある共通のコトやモノを推し量るために世界をしっかりと見て、世界を自分の方に引きつけ、自分の軸を動かさずに回り、世界に対応しようとしているものだと私は思う。

 たとえば、保坂和志さんの小説の、あのセンテンスの長い独特の文体は、世界を、ぎりぎりのところまで自分の手元に引きつけて見切ろうとするもので、不自由なまでの“辛抱”を感じるが、あの文体があるがゆえに上辺の現象変化に泳がされず、自分の軸を動かさずに世界と付き合うことができる。それは、世界に対して、自由に対応しているということだろう。同じような“辛抱”は、セザンヌの絵などにも感じる。

 そして、ぎりぎりまで世界を見るといっても、すべてがセンテンスの長い文体になるとは限らない。

 和歌とか水墨画などは、描いている瞬間はあっと言う間だが、描く行為の寸前までは、世界に対するストイックなまでの“辛抱”や、その辛抱があるからこそ可能になる“世界の見切り”とでも言うべき清々しさや潔さが伝わってくるものがある。

 芸術というのは、人間と世界の間をつなぐ臍の緒のようなものであって欲しいと私は思う。世界をしっかりとつなぎ止めて、そこから滋養を得るためのものであって欲しい。

 世界の移ろいに軽く弄ばれてしまう類の不自由なものでは困るし、そういうものは芸術だとは思えない。 

 そして、芸術家の自由を支えるものはいったい何なのかというと、上に述べた眼力が大事なのは言うまでもないが、イチローや松井だって、眼力だけではボールは打てない。眼力に対応するバットコントロールや、筋力が必要になる。バッドコントロールというのは、道具を使いこなす力だから、文章とか絵の技術なのだろう。そして筋力というのは、私は思考力だと思う。

 アートをやっていますと言う人で、「文章が苦手で文章で表現できないことを物で表している」と主張する人がいるが、私は、こういう主張はあまり信用していない。

 東山魁偉も加山又造セザンヌマチスピカソも、すぐれた芸術家は、上手い下手に関係なく、その人らしい固有の言葉を持っているからだ。

 言葉は、その人の“思考”を表す。“思考”がユニーク(固有)でない人は、表現もユニーク(固有)ではない。表現に違いがあるように見えても、それは表層的なものだ。

 どこかで聞いたことがあるようなことを言っている人は、どこかで見たことがあるようなことの延長か同じ類の表現を行っている。

 芸術は、ユニーク(固有)でなければ、芸術ではないと私は思っている。

 それは人と違ったことをやればいいということではない。

 芸術家が、得体の知れない世界と対峙し、その世界と自分自身を結びつけるために全身全霊で闘って得た極意から発せられた表現は、たった一人でも世界に向き合えるのだという希有なる証であり、その証を具体的に見せつけられるからこそ、心が奮い立ったり、慰められたりする。

 自己意識を持ってしまう人間は、たとえ大勢に囲まれていようが、様々な局面で孤独を意識せざるを得ない生物であり、そういう世事とは別に、この広大深遠な世界を生きていく自分から眼を背けなければ誰しも孤独を意識せざるを得ず、その孤独を引き受ける覚悟を持たずして、他者との本当の協調も、自分らしく生きることもあり得ない。そうした人間の孤独を、本物の芸術は下支えしてくれるのだ。

 そして、芸術家は、自問自答など言葉による思考を重ねることによって、たった一人で世界と対峙していくための力をつけていく。それは、イチローが、筋力トレーニングでイチローならではの身体をつくりあげていくことに等しい。

 プロ野球選手でも、筋力の範疇を超えてボールは飛んでいかないが、表現活動においても同じことが言える。思考の深みがない表現者の表現は、当然のことであるが、深みはない。眼が良くて、バットコントロールが上手くても、ボール(世界)の勢いに押されて、ボテボテの内野ゴロに打ち取られてしまう。そんなものが、どうして、孤独の下支えになることができよう。

 バッティング同様、芸術にも、眼力、心(バッティングフォーム)、技術(バットコントロール)、思考力(筋力)の修養が必要であり、どれかが欠けても、世界に対して自由になれない。そして、世界に対して不自由な表現は、作り手の自己顕示欲を満たすためだけのものであって、それでなくても世界に対して不自由に生きている人々にとって、何の意味があるのだろうと私は思う。

 最近のアートは、作り手の不自由と、それを見る側の不自由が合致するという互いに不自由な関係で成り立つことが多く、そうした構造がビジネスになり、そのフィールドに、批評家が意図しようがしまいが、結果的に寄生してしまうケースも多い。しかし、不自由の合致という体験は表現世界以外のところにも満ち溢れているので、そうした状況のなかで敢えて不自由な表現を作ったり、見たり、コレクションをしたりするというのは、物好きというか、ある種の虚栄(自己顕示欲)でしかないと思う。

 たとえて言うなら、お金を出して、カッコつけて、草野球を見に行くようなものだ。草野球ゲームのなかで、魔球だ!!大リーグボール1号だ!!とか言っているようなもので、どうぞ波長の合う人同士で好きにやってくれ、という感じにしかならない。

 イチローや松井のバッティングを見たいと思うのは、そこに希有なる自由が実現されているからであって、芸術もまた、そういうものであって欲しいと思う。