映像の文法と文体について

 一昨日、荻窪のカフェギャラリー六次元で、映画監督の小栗康平さんがトークをすることになったので、見に行った。六次元のトークは観客も一体化したものなので、私も色々話しをさせていただいた。
 
このトークのなかで、とりわけ映像教育のことに関して、小栗さんの口調が強くなった。群馬県の小学校で映像教育をやろうということになったのだが、現場の先生達が「大人でも難しいものを子供が理解できないのではないか」と消極的だったらしい。また教育を行う上で、先生じたいが映像のことを何もわかっていないので、先生
の教育から始めなければばならなかったということも小栗さんは語っていた。

 でも実際に教育を始めると、子供達は大人等よりも遥かに頭が柔軟で、作り物の”映像”と、リアルな世界との差異について、なぜそれがそうなるか、なぜそういう映像づくりになっているか、ということを驚べきスピードで吸収していったそうだ。
 
これはとても大事なことだ。現在、これだけ巷に映像が氾濫している状況のなかで、映像という人為的なものを無防備に受け入れてしまっている人は意外と多い。「映像が氾濫している」と書いたが、氾濫しているのは、人間の欲望を過剰に刺激したり、羨望を感じさせたり、予め言葉で設計されている作り手の意図に沿って見る者を誘
導するものが大半だ。そして、直接的であれ間接的であれ、商売に結びついた映像の露出がきわめて多い。たとえ商売に結びついていなくても、ネット上な
どを中心に、人それぞれが自分を尺度にして自分を満足させるために行っている映像づくりも、敢えて映像化しなくても言語で説明可能な心情などを安易に露呈させたものばかりが目立つ。そういう意味では、現代社会に映像の数は多くとも、同じ性質のものばかり”見せられている”ということになる。
 映像教育と言っても、そうした映像に対する警戒心を知識として覚えさせ、メディアリテラシーを普及させるといった、現在の知識偏重型の体質維持のことを言っているのではない。
 小栗さんは、このことを、映像を通じた、一種の「芸術教育」だと言っていた。
 私なりの理解では、次のようになる。すなわち、
同じ性質の映像ばかり見せられていると、世界の見え方は狭まっていく。私達は、映像に多く接することで世界の多様さに触れているように錯覚しているが、実際には、ある一定のベクトルに沿って世界を見るように視線を揃えさせられている。
 具体的に言うと、毎日朝から晩までテレビを見て、映像情報をたくさん見たつもりになっても、実際には、世界の見方が、とても偏狭なところへと導かれている。テレビなど一切見ずに、1年間、世界を放浪した方が、世界の見方は、広がるだろう。世界には様々な時空があることが、身体でリアルに実感できるからだ。
 とはいえ、誰もが世界を放浪し続けることなんかできやしない。ならば、同質の映像ばかり見て世界認識を狭めるのではなく、異なる時空を垣間見せてくれる映像をたくさん見ることが必要になってくる。
 
言葉であれば、学生の頃に数多くの古典に触れる機会がある。古典は、この世界に、様々な形の異なる時空があるということを、体感として伝えてくれる、内容を理解しようがしまいが、『源氏物語』であれ、『奥の細道』であれ、人間というものは、生きる環境が異なれば、世界の捉え方が異なってくるのだな、ということは充分に伝わってくる。
 しかし、現在社会は、情報伝達において映像が果たす役割が飛躍的に高くなっているのに、生きる環境によって”世界の捉え方”が
変化するということが感じられるような映像と触れる機会が、極めて少ない。たとえば世界遺産を紹介するテレビ映像のように、本来は異なる時空にあるものを、同じ目線で切り取って、同じ言葉の文脈の中に閉じ込めて映像化するものが大半であり、断片的知識は増えても、物の見方の枠組みは、むしろ狭まるだけなのだ。

 
写真も含めた映像の歴史は、まだ200年に達さず、言葉に比べて不十分かもしれないが、それでも、異なる時間の流れや空間の広がりを感じさせ、思考の奥行を広げてくれる映像は、数多くある。残念ながら、それらは、莫大なステレオタイプ的映像表現の下に隠されているにすぎない。商業主義社会のなかでは、
観客動員数ばかりが重要視され、かつ、観客の方も、自分の既存の思考や感性の領域の中に閉じこもり、その中での刹那的な快楽や利便性や実利性にお金を使い、思考や感性の奥行を広げていくための負荷を、お金を払ってまで受けようという人は少ない。そうした悪循環のなかで、世の中で目立つ映像表現は、ステレオタイプのものばかりになってくる。全てが、その時点で消化されるだけで、未来につながっていく感覚をまるで得られないので、その瞬間の憂さをはらしながらも、次第に食傷気味になり、かつ、重たいしこりが、自分の中に蓄積していくことになる。社会も人生も、負のスパイラルだ。

 商業的成果とか、目先の快感や実利や利便性などの分別とは別次元のところで、長いスパンで映像表現に対する目を養っていく機会を増やすためには、教育現場にその場を見いだしていく他ないかもしれない。
 
教育すればすぐに全ての者に成果が現れるなどと思う必要はない。現在、映像表現の時空の奥行を敏感に感じ取れる人が、仮に100人中1人くらいの割合が、
100人中10人になるだけでも、社会が変わっていく可能性がある。映像を通じて世界の奥行をきちんと伝えていきたいと願う映画館や、写真表現を媒介とす
る雑誌やギャラリーで、自分の概念の枠組みの外を観ようとする意思を持った人がもう少し増えさえすれば持ちこたえることのできる所もけっこうある。そういう人があまりにも少ないゆえに、残念なが
ら店じまいをしなくてはならない状況にあるのが、現在なのだ。

 
映像教育を通じて学ぶものは、単なる映像の知識ではく、”映像の文法”を学び、”文体”を身体化していくことだと私は思っている。映像は、ただの雰囲気では
ない。文法があるし、文体を持っている。ハリウッド映画は、ほとんどが同じ文体でできており、コレばっかり見ていると、世界がその文体だけでできているかのように錯覚していくだろう。

 
文法は、コミュニケーションにおける共通の約束事だ。これを無視すると誤解が生まれる。社会的動物である人間にとって、誤解は、生命の基盤を危うくする。
 と同時に、流動化する世界は、誰もが共有する前提を超えた事態を次々と生じさせる。にもかからず、それまでの共通の約束事だけで対応しようとすると、ステレオタイプの思考に陥り、その枠組みに入らないものは、無きもののように扱われる。それは一時しのぎにすぎず、根本的な対処ではないがゆえに、ジワジワと歪みが大きくなる。
 だから、共通の約束事は大事にしながらも、その中だけで安易に処理をするのではなく、起こっている事態に対して、誠実に取り組む必要がある。すなわち、ステレオタイプの枠組みに入りきらないものを丁寧に拾い集めて、組成し直し、人間の認識世界を少しでも広げようと努めること。その過程で、それまでにない文体が生まれる。たとえば、小栗康平さんやビクトルエリセのような、ステレオタイプでない映像がそうだ。それらは、ステレオタイプの枠組みの中の映像ばかり観ている人にとっては、馴染みのない文体で描かれているものだから、脳に負担がかかる。だから疲れる。
快楽主義の社会で、お金を払って迄見たくない、というものになってしまう。しかし、ステレオタイプの枠組みの外のものに日頃から注意を払い、それらが無い
ものに等しい扱いを受けていることに対して哀しみを覚え、めったにないそれらとの出会いを渇望している人にとっては、小栗さんやビクトルエリセ
の映像は、待ち焦がれていた新しい文体ということになる。
 それは写真でも同じ。現代社会のステレオタイプの枠組みの外を、写真の共通の約束事(文法)を大切にしつつ、新たな文体を作り出そうとして格闘している写真家は、存在する。
 
ステレオタイプを壊すことだけを目的に、映像の文法を無視し、何が写っているのかさっぱり見えないものを作って、「アバンギャルド」などと気取っても、それは、作っているのではなく、叫んでいるだけであり、新たな位相での秩序化、すなわち新たな文体につながるものではない。叫びは、ステレオタイプの枠組みの住人にとって雑音の一つでしかない。新たな文体というものは、意識がステレオタイプの中に閉じこもろうとしても、ステレオタイプの枠組みの外側にも世界は存在することを知っている無意識に働きかける力があるのだ。

 「一流大学を出て、一流会社に就職することが幸福な人生だ」と、意識的に思い込もうとしても、それ以外にも魅力的な人生があることを、無意識は知っている。「一流大学、一流企業、糞食らえ!」と叫ぶだけでは、その無意識は活性化しない。無意識は、具体的にどうすべきなのか、合点のいく瞬間をひたすら待ち続けている。
 
何が言いたいのか誤解のないように理解してもらうために言葉の文法が必要なように、映像にも、それは必要だ。世界を写すために、最低限すべきこと。焦点を合わせ、しかるべき場所にポジションを置き、しかるべきタイミングで写す。その、”しかるべき”が違えば、伝えたいことも伝わらない。”伝えたいこと”と、”しかるべき”のあいだをしっかりと結ぶために、映像の文法を学び、身につけることは、なくてはならないことだ。人の顔も、どのタイミングで撮るかによっ
て、”上機嫌”を伝えたり、”不機嫌”を伝えることになったりするのだから。

 子供の頃に映像の文法をしっかりと学ぶことで、ふだん何気なく見ているテレビ映像の背後に、人間の意図が潜んでいることが、少しはわかるだろう。それだけでも、邪な誘導に対する警戒になる。
 さらに、様々な文体を持つ映像に数多く触れ、私達が生きている世界は様々な時空が同時進行しているのだと感じる機会が多くなれば、自分をステレオタイプの人生の枠組みのなかに、無理矢理追い込んでいくという愚行も、少しは避けられるだろう。
 映画も写真も、もちろん言葉もそうだが、われわれが既に獲得済みの世界認識をなぞっていくものは、その世界認識を強化するばかりであり、それは、別の認識への通路を塞いでいくことにつながると自覚する必要があるだろう。
 といって、文法も文体もないまま、秩序破壊だけを目的化しても、既に誰もが感じている現状の世界認識への不安を煽るだけであり、その種の不安は、むしろ、現状の世界認識への頑なな執着、それ以外の遮断へと仕向けることになりかねない。
 
誰もが潜在的に共有する文法を疎かにせず、新たな世界認識を垣間見せる新たな文体の創造。しかし、この創造は、無から有のドラマチックな創造である必要はない。ス
テレオタイプの大声によって掻き消され、隅に追いやられ、存在を無きものような扱われているものたちを丁寧に拾い集め、拾い集めるだけでなく組成し直し、世界の奥行が、ステレオタイプの枠組みの外にどこまでも広がっていることを開示すること。

 
風の旅人は、文法を無視して世界に対して”ぞんざい”なスタンスをとっている映像を用いることは決してなかった。ステレオタイプの認識の外側に世界を開示する映像の新たな文体は、世界に対してどこまでも忠実で、文法に対しても忠実な映像を組成することによってしか成り立たない、という自覚が私にはあった。
 単体の単語では伝えることが困難なことでも、その組成の仕方によって、それは可能になる。文法を持ち、文体を持つことは、そのように、さらに深い対話のために人間が獲得した力なのだ。だから、
それらを無視して、人間は、次の位相を垣間みることなどできない。言葉に限らず、映像もまた同じなのだ。