絶望しない生き方




 今朝、永田町駅にスーツ姿の若者が数多くいて、その中に一人、バングラデシュかどこか彫の深い顔立ちのアジア系の若者が混ざっていた。

 日本の大学卒業者の就職率が低下し、今回、補正予算案として政府は、新卒者の就職支援などの雇用対策や介護や医療といった今後成長が見込まれる分野での人材育成などに3199億円を計上するとともに、各企業に、積極的に若者を採用するよう働きかけていくという。

 しかし、現在、企業は、たとえ若者の採用枠を増やしたとしても、日本人ではなく外国人を増やし始めている。パナソニックの場合、10年度は新卒採用1250人のうち、グローバル採用で750人。11年度は、新卒採用枠を1390人に増やすが、そのうち海外で1100人、残りの290人も海外から日本に留学している人達を積極的に採用するらしい。パナソニックをはじめ日本の一部上場企業の多くは、ビジネスフィールドが世界全体に広がっているので、日本人だけを優先的に採用するのではなく、自らの生き残りのために、一人でも多く優秀な人材を獲得しようとして、様々な分野で外国人の採用を積極的に行っている。http://www.j-cast.com/2010/06/20069022.html

 こうした潮流が、今後、逆戻りすることは考えられず、この状況のなかで日本人はどう生きていくのかを考え、行動しなければならなくなっている。私にも二人の子どもがいるので、その将来のことを思うと、人ごとではいられない。

 その対策として、語学、資格、就職支援のためのシステム、教育その他、様々なことが論じられているが、果たして、そうした分別臭いことが決め手になるのだろうかと、私は疑問に思う。

 今朝、永田町の駅でスーツ姿のアジア系の若者を見た時、彼の瞳の力が非常に印象に残った。

 なんというか、“未来に向けて開かれている瞳”という感じ。

 “未来に向けて開かれている瞳”というのは、将来の具体的な姿を想定するという単純なことではない。なぜなら、現時点の自分が想定する将来の姿というのは、現在の自分に蓄積された経験や知識の範疇のものでしかないから、自分の将来をそれに固定してしまうのは、「未来」ではなく、「現在」および「過去」に縛られることだと私は思う。

 私自身、これまでの人生で無数の若者を面接したが、若者の口から将来の目標を告げられて感銘した経験はない。それらの多くは誰でも思いつきそうなことが大半で、つまりそれは自分が考えに考え抜いて導きだした考えというより、多くの場合、メディアや周りの人々その他、いろいろな人達から吹き込まれてきたものが現れているにすぎないと感じてしまうからだ。

 「具体的な目標がないと前に進めない、必死になれない」という言い方をする人がいるけれど、果たしてそうだろうか。

 具体的な目標があるから頑張れるという人は、具体的な目標とは関係ないものを分別臭く除外して、頑張るのだろうか。そうした分別は、その人を小さくまとめてしまうだけではないか。もしかしたら、分別で除外したものの中に大事なものが秘められているかもしれないのに、自分に役立つかどうか分別臭く考える人に、その大事なものが見えるだろうか。

 未来に開かれた瞳というのは、未来に対して、“具体性”という制限のある目標を設定している瞳ではないと思う。

 今朝、アジア系の若者の瞳に感じたのは、自分に与えられた環境において得られるチャンス、可能性、経験等を、どんなものでも貪欲に吸収していこうとする気迫のようなものだった。

現時点では小さな器にすぎない自分の状態で、自分の目的に沿っているかどうか小賢しく分別して取捨選択するのではなく、まずは自分の器を可能な限り広げること。その為の覚悟のようなものができている瞳。言いかえるならば、荒地の状態なのに、自分の好きな種を蒔いて好きな果物を得ようと夢想するのではなく、土地を耕して豊かにすることに現在という時間を捧げようと腹がくくれている瞳。

荒地のままの状態でいくら種を蒔いても未来は育たない。就職の面接の際、将来の目標を答える局面で、何の種を蒔くかというレベルで答えるのではなく、どうやって土地を豊かにするか、という発想で答えるべきなのだ。そして、それに答えるためには、それなりの心構えと、日頃の実践の積み重ねが必要になるだろう。種の種類については、嘘でも答えることができるが、土地を豊かにするためのスタンスは、その人自身の生き様から出てくるものであり、嘘をついても見抜かれる。

現在の日本には様々な良いところがあるが、未来に向けて、これは少しヤバイなあ、と思う局面もある。

 政治、教育、文化その他、社会全体の風潮として、また、その影響を受けた個人の心のなかの問題として、こちらの種とあちらの種のどちらが自分にとって快適か、何の種が自分にとって好ましいか、その種をどう蒔けばいいか、どう育てればいいか、といった頭でっかちの発想およびハウツーが蔓延していること。種を蒔く以前の問題として肝心の土地をどう耕すか、そもそも土地を耕すというのはどういうことなのかが、わけのわからない状態になっている。下手な動きをすると、「精神論」、「不合理」などと、お勉強ができて世渡りが上手な口先ばかりの人達に、激しく攻撃される。

土地を耕すという、頭でっかちの対応では何ともならず身体そのもので体得していかなくてはならないプロセスがないがしろにされ、同時に、その感覚がいったいどういうものなのか、ピンとこなくなっている日本社会。とりわけ、「種」の種類だけは数多く知っている文化人、知識人と呼ばれる人に、土地を耕すことがどういうことか見当もつかなくなっている人が増えているのではないか。

 という言い方をすると、「だったらオマエはわかっているのかよ」と、反感を持つ人も当然いるだろう。

 しかし、土地を耕すということに関しては、「わかっているかどうか証明する」類のことではない。究極のところ、耕していない土地にいくら種を蒔いても果実も花も実らない。一生懸命に耕した土地でさえ、場合によっては、蒔いた種が必ず実るという保証もない。   

 果実が得られるなら頑張るが、それが確約されないとやる気が起きないと不平を言って土地を耕さないと、そのうち、あたり一面荒地になってしまい、花や果実が実る可能性が100%なくなる。

 絶望というのは、100%の可能性がなくなる状態であり、僅かでも可能性があれば、人は絶望しない。

 何のために地道に土地を耕すのかというと、果実を保証してもらうためではなく、僅かの可能性を維持するためであり、それは人生において何よりも大事な、“絶望しない為”なのだ。

 土地を耕すことがどういうことかわかっている人は、素晴らしい果実を保証してくれる人ということではなく、絶望しないために今どうすることが大事なのかわかっていて、他人にどう言われようが、それを地道に実践している人なのではないか。

 「絶望」の反対は、「希望」という大仰で長続きするかどうかわからない代物ではなく、「ほんの僅かな可能性」と、「その可能性を少しでも広げるための“しんどさ”を自分に課し続ける地道さ」なのだと思う。

 この問題は、もはや若者だけのものではない。会社員であれ、大学教授や学校の先生であれ、何かの団体職員であれ、組織に所属していれば安泰という時代ではないし、その場所が無いと生きていけないのだと執着すると、自己保身の争いに巻き込まれ、勝つか負けるかが絶望かそうでないかの分岐点になってしまう。

 そうした際、執着によって自分が歪められていくかどうかも、それ以前に、どれだけ自分の土地を耕してきたかによるのだろう。それは、”自己責任”の問題ではなく、どちらかというと、程度の差はあれ、美意識の問題だ。

 ある日、突然、自分の所属する場所がなくなったり、居づらい状況になっても絶望しないために、”今”とどう関わっていくか。未来を視野に入れて生きることにおいて、若者も中高年も変わりはない。

 自戒をこめて。