ドキュメントの在り方?

 昨日、田口ランディさん主催のオールナイトイベントを見に行く。
 夜7時半〜、映画、トーク、音楽など、朝方の4時半頃まで。その間、ほとんど帰る人がいない。すごい。参加者のほとんどがランディさんのファン。女性が多い。みんな真面目で熱心だ。
 今回のイベントは、ランディさんが見つけてきたチベットに関するドキュメント映画を中心に展開された。
 映画ということになると、私はどうしても映像と言葉の関係が気になる。「風の旅人」を制作する時でもそうだが、言葉を映像の説明のために使いたくないし、映像を言葉を補完するものとして使いたくない。その手法は、情報の受け手が、知ったつもりや、わかったつもりになりやすいという問題を抱えている。昨日の映画の感想でも、「それまで知らなかったことを知ることができたからよかった」という声が多かった。おそらく、知識情報として知るということについて、それを否定的に考える人はあまりいないだろう。でも、私は、「風の旅人」を制作するスタンスとして、何よりも「情報知識として知って満足すること」の欺瞞を認識するところから出発したいと考えている。
 テレビなどでは、視聴者が見る際に自分の立ち位置を変える必要はない。極端な話し、寝転がってポテトチップを囓りながら、シリアスなドキュメントを見ることができる。作り手が、対象をズームアップしたり、過剰なほどアナウンサーが言葉で補足したりして、視聴者に楽をしてもらいながら、わかってもらう努力をする。視聴者に対して、自分たちで考えなさいという突き放し方をしてしまうと、視聴者は不快な気持になって視聴率は下がる。それを恐れて、どうしてもお節介なほど過剰サービスになる。
 結果として、視聴者は、たとえ不勉強でも理解納得できるように単純化され言葉で補完説明された映像ストーリーを見て、それでわかったつもりになって納得してしまう。
 言葉で補完する必要があるのは、それだけ映像に力がないからだ。それは、映画に限らず、写真も同じこと。ダメな写真ほど、言葉による説明が必要になる。
 私はシリアスなドキュメントを見た時に、視聴者から「自分の知らないことがわかったので、とてもよい映画でした。」というコメントが出てしまうのは、視聴者の内面が、そのドキュメントを見る前と見た後で、自分のなかに大きな変化は生じておらず、知識として何かを知ったという程度のものにすぎないのではないかと思っている。
 「共感」という言葉も肯定のように聞こえるが、もしそのドキュメントが見る側の不勉強な状態でもあっさり共感できるものであるとすれば、その作品が、見る側に対して深刻な問題提起を行うことができていないということを踏まえておかなければならないだろう。
 私は「風の旅人」を制作するうえで、共感してもらいたいと思ったことはないし、知識を増やすという程度のものにもしたくない。私自身、日野啓三さんが言っていた「意識の地平を広げる」という言葉を体験できるようなものを、読んだり見たりしたいし、「風の旅人」もそういうものであることが理想だ。

 知識として何かを知るというのは良いことのようにも聞こえるが、情報誌のなかの娯楽情報も、知るという意味においては同じことだ。それは、この世に腐るほど溢れている「日々消化される情報知識」に成り下がることだろう。
 消化されない情報知識というのは、もう一度見てみたいと思わせる力があるものだ。それは、見る側の内面に言葉によって整理できない気持がいろいろ渦巻き、その原因が何なのか確かめたい場合とか、神は細部に宿るというディティールを、もう少し自分に引き寄せたいという衝動がある場合などだ。意識の地平が広がるというのは、そういう状態のことだと思う。
 そういう気持が生じる時は、作品そのものが大きな問いになっている。答えを得るとか、知らなかったことを知るというのは頭のなかの処理にすぎず、見る側が大きな問いに晒されるような渇きを感じる時、その作品は、視聴者の内面深くに入り込んだと言えるのであって、作品と邂逅したということになるのではないだろうか。
 だから、テレビでも映画でも雑誌でも、見終えた後、わかったような気分になるものではなく、視聴者が自分で感じ考えさせる余地がどれほど深く大きいかによって、良し善し悪しが決まってくるのではないかと私は思うが、そのスタンスは、下手をすると読者や視聴者を挑発することにもつながるから、視聴率や部数を気にする大衆メディアでは難しいだろう。
 テレビなどのお節介サービスの影響だと思うが、ある程度、わかりやすいストーリーとか解答をもらって気持がすっきりしなければ嫌悪の感情を抱く人が多くなっている。人付き合いなどにおいてもそうだ。難しいものやわからないものは嫌いという感じで。そうした人々に媚びるようなドキュメントが増えると、問いとか、問題の投げかけそのものが不快で否定されるような空気になってしまう。問題の投げかけといっても、政府に問題があるという類の自分が傷つかない狡いものではなく、自分の懐を抉るような厳しい問題が投げかけられるということなのだけど・・・。自分が傷つかない問題提起や、同意は、その場の雰囲気に波風を立てることもないし、誰でも簡単にできてしまう。でもそうした無難な立ち位置で物事が変わるのならば、この世は、とっくの昔によくなっているだろう。

 いずれにしろ、私は上記のように自分が感じ考えていることを実証する場として、「風の旅人」を制作するしかない。