一瞬か永遠か

 とある小さな写真展を見に行く。
 写真を見ている時、写真家が、その場に居合わせた若い女の子に熱心に説明していた。
 写真というのは、けっきょく一瞬なんだよ。そこに写っている人も、営みのなかの一瞬を切り取られただけで、それ以外のものは何も写らないしわからない、それでも、写真を撮っている時は気づかなかったけれど、プリントになったのを見た時、この一瞬の光景を自分は美しいと思った、というのが話しの趣旨だった。それに対して、女の子も、とても納得できるという顔をしていた。
 確かに、その人が撮った写真を見ていても、人々の背後のことは何も感じられなかった。
 彼が言うプリントの美しさは、生きている人間の凄みのある美しさではなく、夜のネオンのような赤や緑の光の綺麗さだった。ブレてぼんやりと写し出された人間は、むしろ、それらの色の引き立て役になっていた。
 ああこの写真家は、ここにいる人たちと、本当の意味で出会っていないのだなと思った。

 一瞬というのは、単純に流れゆく時間のなかの一つの区切りにすぎないのではなく、その瞬間までの全てであり、その時点で既に未来を包含したもののように私には思えてならない。そういう豊かな一瞬との出会い方があるのであって、そういう写真を私は数多く見てきた。その永遠の一瞬に賭ける気概を無くして、なにゆえプロフェッショナルとして写真を撮る必要があるのかとさえ思う。
 というより、プロと自称する人の多くが、素人の物の見方に迎合している側面もある。
 プロフェッショナルを、単に技術的な側面だけで捉えてはならない。プロと素人を分かつのは、目が利くかどうかだ。素人の目に見えないものが、プロには見える。
 時々、素人の感覚の方が先入観が無いので、自由で良いものができることがあると言われることがあるが、私は、素人が先入観が無いなどとは到底思えない。
 むしろ、素人の方が先入観が強く、その先入観に自覚的でないのだ。
 特に、世界の見方ということに関して言うと、素人は、テレビや学校教育で擦り込まれた感じ方や考え方に、知らず知らず支配されている傾向が強いと思う。一瞬を、ただの一瞬と感じる感じ方は、むしろ素人の方が強いのではないか。というか、そういう世間一般の固定観念を超えていく技を確立している人は、自分の手応えとして、そうでないことがわかるし、たとえ自分に技がなくても、そうした実例に多く接すれば、感覚として理解できる。
 でも、最近、先達の優れた写真をあまり見ない写真家志望の人が多いのだ。
 彼等にとって写真は自分の気分を表すものにすぎず、世界の真理(たとえば、一瞬がただの一瞬ではないということなど)に近づくための手段だとは考えていないようだ。それゆえ、人の作品を見て学ぶことも必要ないと思っていて、他者を排除した自分なりの作品論だけが一人歩きしている。
 私は、作品論や、写真が綺麗か汚いかはどうでもよく、意識の地平を広げてくれる作品(それが本当の美だと思うが)との出会いを常に期待し、その担い手を深く尊敬している。