第889回 永遠!?

見つかったぞ
何が? 永遠が
太陽と
融合した海が (『永遠』アルチュール・ランボー

 イエメンでは、モスクでの自爆テロで多数の民間人が亡くなり、チュニジアでは、武装集団がバルドー博物館を襲撃し、観光客を無差別に殺害した。  

 チュニジアは、大学を中退して諸国を放浪していた私にとって、もっとも鮮烈な印象を残した国だった。
 1982年のチュニジアの夏は、連日、気温が50度近くあり、狂った夏と言われ南部の砂漠地帯では死人も出ていた。その炎暑のなか、朝7時からアラビア語を少し習い、その後、毎日のようにカルタゴの真っ青な海で泳ぎ、日が暮れてからはブルギバスクールの寮で、世界各国からやってきた若者達とダラダラと時を過ごしていた。あの気だるさ、濃密さ、これぞ生の手応えだと、私は、アビシニアのランボーと自分を重ね合わせて悦に入っていた。
 アルチュール・ランボーの純粋は、若い頃の自分の憧れであり、その言葉は、自分の不満を昇華させる手段であったように思う。
 2015年現在、社会には閉塞感があると言われる。しかし、1982年当時、20歳だった私も、日本を脱出する前は閉塞感を感じて不満を抱え込んでいた。
 今思うと、当時、私が抱いていた閉塞感というのは、けっきょく何だったのか。
 一言で言うと、人生の先が見えてしまっているという感覚だ。
 大学を卒業して企業に就職して、たとえ出世できたとしても、社会の中に既に存在している出世した人間を見るかぎり、そんなに魅力的に感じられなかった。
 自分が起業したとしても、当時のビジネスは、まだ消費財ビジネスの延長でしか捉えられず、物をたくさん売ってお金持ちになることがそんなに魅力的にも思えなかった。
 また、政治家であれ官僚であれ、ニュースで腐敗した姿ばかり見せられていたし、学者とか作家も、頭でっかちの存在のようにしか思えなかった。
 大学に入学してすぐ、母親や旧友や後輩が、あっけないとしか言いようのない死に方をしたことのショックもあった。一度しかない人生という気持ちが自分の中で膨らむものの、それに値する生き方をどこにも見いだせなかった。
 そういう時、19世紀半ば、ヨーロッパ文明を棄ててアフリカにわたり、砂漠地帯を放浪し、行方不明になったランボーの生き方は鮮烈だった。
 物事の機微がまだよくわからない若者の私は、確かな手応えを性急に手に入れようとしたのだと思う。
 現在、シリアやイラクの混乱に乗じて勢力を拡大させるサラフィー・ジハード主義組織のISILが掲げる”聖戦”に、世界中から多くの若者が参加しているが、20歳の時の私にも、そういう渇きがあったと思う。
 失業や貧困による不満が、そういう行動に若者を駆り立てているという分析もあるけれど、ただ仕事がなかったり貧しかったりというだけでなく、これ以上この世の中で努力して生きていてもよくはならない、よくなるどころか悪くなるだろうという感覚が強く、その不満のはけ口を求めていることは確かだろう。
 世の中には、理想を掲げてそれに向かって突き進みたい、挑戦しがいのある目的を持ちたいと思う若者がいる一方で、大仰な理想や目的など必要ないと考え、好きなものに囲まれて、できるだけストレスを感じずに日々楽しく過ごせれば十分という若者がいる。(現代の特徴ではなく、昔から仕事は退屈でも安定していると考えられていた公務員志望者は多かった)
 後者の若者は、覇気がないとか軟弱とか、草食系とか、非難されることが多く、どちらかというと、前者の方が若者らしいと評価される。
 しかし、前者は、自分で起業したり何か新しいことを始められる力を持っている少数を除いて、現在のように成長の滞った社会では生きづらい。どこかの企業に所属することになり、目標が与えられたとしても、自分の人生を賭けるに値するものだと感じられない。結果的に、短期間で離職し、自分が理想とする環境を求めて転職を繰り返したりする。
 理想など追求しない醒めた若者達も、命じられたことを淡々として給与をもらい、その給与で好きなことができればいいが、実際の仕事の現場では思うようにいかないことも多く、ストレスに対する耐性がなければ続けることができない。
 今は、高度経済成長の時代のように、みんなで一致団結して理想に向かって邁進する時代ではなくなっている。努力すれば今日よりも必ず5年後は豊かになっていると実感できた時代ではない。いくら努力しても5年後も同じか、それ以下になっている可能性が高い時代なのだ。
 そういう状況下で、イスラム原理主義に加わる若者だけの問題ではなく、日本にも、違う形での現実逃避は増えている。
 歴史に残る凶悪犯罪をおかしたのに、現在でも、オウム真理教の改称した団体に、年に100人を超える信者が参加しているという。
 知識も情報もあるけど、仕事もお金も社会的ポジションもない若者が世界中で増えている。いや、今にかぎらず昔だって、若い間は、ろくな仕事もお金も社会的ポジションもないのは普通だった。
 今の特徴は、前途に対して、夢を持てないということだろう。
 年齢を重ねてくると、夢なんかなくても淡々と味わい深く生きていけるのだが、若者にとって、夢を持てないことは辛い。
 しかし、それは決して能力がないからとか、昔に比べてその対象がなくなったからということでもない。昔だったら十分に夢の対象となったような仕事でも、それほど素敵に感じられない、人生を賭けるに値するように感じられない、社会を変える力になると感じられないというのが実感ではないだろうか。
 そういう感覚が、聖戦とか、解脱とか、この地上の現実からかけ離れたものを目指す情熱につながっているような気がする。
 しかし、不思議なことに、聖戦にしても、カルト宗教で解脱を目指す修行者にしても、高度経済成長時代の猛烈サラリーマン(*注 今では記録映像のイメージで当時を想像するしかないが、記録映画が全てを写し出しているとは限らない)と似たところがある。
 一人ひとりの顔が見えないというか、画一的なのだ。みんな同じ方向を向いて、同じ服を着て、同じ髪型で、同じことをやっている。目標も同じで、生活の仕方や、所有するものも同じ。顔つきも似てくる。そういう集団は、集団になった時に個人の良識とは無関係に行動する恐さがある。テロにしても、グループでの苛めにしろ、自分を虚ろにした集団ほど残虐になれる生物はない。
 地上の現実に倦んで理想に生きるのであれば、ランボーのように、独りで苛烈な荒野を彷徨い、野たれ死にするか、自分だけの永遠を見つけるかだ。誰の評価も関係ない。あるのは自恃のみ。群れたりするのはカッコ悪い。
 そうでないのであれば、社会環境は今日も5年後も大して変わらないかもしれないけれど、みんなと同じ方向を向いて同じ物をもって同じことをして同じ顔つきになるという成長時代とは違う生き方を模索するしかない。同じ材料でも、料理の仕方を変えるとか、組み合わせを変えるとか、噛み締め方を変えると、味わいも変わる。人生に変化は出る。
 ただしその場合も、人生が不味くなるか、自分だけの味を見つけるか、誰の評価も関係ない。あるのは自恃のみということになる。
 高邁な理想の実現を阻む現実、もしくは、理想すら持てない硬直化した現実、どちらであっても、「現実が悪い」いう話になるのだが、人類史を振り返っても、人間にとって都合のいい現実というものが実現したことがあったのかどうか疑問だ。
 現実の問題というのは、けっきょくのところ、自分の問題を、現実の問題にすりかえる心理と思考特性が作り上げたもので、現実がどうであろうが、生きて死ぬ自分自身の自恃の問題だと割り切らなければ、絶えず、都合の悪い現実に振り回されることになる。 
 ランボーは『永遠」という詩のなかで謳う。
 ここには希望はない 立ち上がる望みもない 智慧も不屈の精神も ただの責め苦にすぎぬ

 人間どもの くだらぬことから 身を放ち 自由に飛んでいけ
 

  しかし、こうも謳う。
 用心深い心よ 懺悔しよう 虚無の夜と 灼熱の昼を
 
 その上で、こう謳うのだ。
 お前自身のうちから サテンのような残り火よ 義務は生ずるのだ 誰にいわれるでもなく 

 分断化された時代、一方が一方を否定し、区別し、差別し、否定された一方が、もう一方を否定し、抵抗する。二項対立の構造が続くかぎり、軋轢は深まるばかり。

 自分が所属する場所に自分のアイデンティティを求めるのではなく、独りになり、荒野を自分の足で歩き、どんな人間も究極のところで独りだと知ってはじめて、卑小な二項対立の世界の外に出られるのだろうか。

 見つかったぞ 何が? 永遠が 太陽と 融合した海が


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