報道の欺瞞と煽動

 帰宅してテレビをつけると、NEWS23で「10代の心象風景」と題して、女性の心理評論家がベラベラと分析し、キャスターが神妙な顔で相づちを打つというお決まりの絵があった。「近頃の10代の傾向は?」というキャスターの問いに、心理評論家は、将来に対する想像力欠如、自分しか見えない偏狭さなど、手許のノートに目をやりながら10代を一括りにしてステレオタイプ的に答え、「どうすればいいか」というキャスターの安易な問いに対して、「大人も含めて、自分だけよければ、というのはやめてほしい」などと答えていた。そして、10代の犯罪検挙数の、ここ5年間のグラフが出る。よく見ると、年とともに増えているわけではない。ほぼ同じか、むしろ減っている。そして、コメントが入る。「昨年よりも、全体数は減っているように見えますが、殺人などの凶悪犯罪は、今年は32人で、去年よりも18.5%も増えているのです」と、18.5%を印象づける。少し冷静に考えると、27人から32人に5人増えただけなのに、27人ということも、5人増えたとは言わず、18.5%増加とだけ言う。

 同じ時期に15,000人自殺して、10,000人が交通事故で死んでいるのだから、%で示すのなら、特殊な死因のケースごとの比率とかをやればいいのだ。その方が、何が深刻なことかよくわかるだろう。昨日一日だけでも80人以上が自殺していることになるのだけど、テレビや新聞などの報道で、自殺の記事なんてほとんど見ない。やらないのならやらなくていいのだけど、だったら全てやめてほしい。ニュースにしてインパクトのありそうなことだけ切り取って、「昨年よりも18.5%も増えています!」と脅す。

 そういうのって、一種の欺瞞であり煽動でしょ。なんかとても卑怯なやり方だという気がする。それをバラエティとかでやるのなら、見る方も真面目に見ないから害は少ないが、神妙な顔をした番組でやるから、よけいにたちが悪い。

 同じ番組のなかで、街角の10代の若者たちにインタビューをしていたけれど、ほとんどの人が、あの事件に違和感を感じているという雰囲気で、その違和感が多くの10代が共有していることなのに、その中の一人が「暴力的な気持ちになることもある」と言った言質をとって、評論家が、「暴力的な気持ちになると言っていた若者もいたが、あのような若者が増えている・・・」というようなコメントを発する。でもそうではないだろう。昔だって今だって、暴力的な気持ちになることは同じようにある。その気持ちと一線を越えるかどうかは別の問題だ。だから、今の10代を一括りにして簡単な言葉で分析するのはおかしい。10代にかぎらず、全世代を通して、際だって奇妙な行動をとる人がいることは事実で、そうした傾向を生じやすくする原因にこそ目を向けるべきではないか。

 その原因の一つは、間違いなく、マスコミのスタンスだろう。

 今回のような報道によって、いったいどんなことがプラスになるのだろう。潜在的な可能性を持っている人に、「ああ、俺だけじゃないんだ」と開き直りをさせることにつながっても、抑止になることはないのではないか。それと、いたずらに聴衆を不安にさせることで、その不安が、閉鎖的でギスギスした空気の広がりにつながり、そのことが結果として、さらなる歪みにつながることもあるのではないか。

 こうした事件に限らず、たとえばテロなんかにしても、報道が抑止になることは絶対にない。予防にもならない。誰も報道をしない方がいいのだ。そうなればきっとテロは激減すると思う。

 テロも愉快犯も、メディアが騒げば騒ぐほど張り切る。そろそろ、いったい何のための報道なのか、原点に立ち帰る余裕はないのだろうか。神妙な顔をして、「似たような事件を抑止するために」などと言うが、簡単な分析でそれが可能なのか、むしろ、本質を見誤って、逆効果ではないのか、と一呼吸を置いて、考えてもいいだろう。

 メディアの報道が、類似の事件を増長させるというのは、よくあるケースだ。テロだってそう。もちろんこうしたことはテレビに限らず、インターネットでもそうなのだが、ああしたテレビ番組は、知的文化の装いで神妙になりすまして無防備なお茶の間に侵入してくるので、よけいにたちが悪いと思う。食事の後、ゴロリと横になってぼんやりとテレビを見ている大勢の人に向かって、手短な言葉でまとめられた雑な解説と、10代の凶悪犯罪が、18%も増えている!!という印象だけを擦り込むのだから。

 「世の中には、こんなにひどいことばかりありますよ!」という伝え方は、それを制作している人の、災害とか他者の悲惨さに対する過剰な好奇心や興奮や、神妙な顔をしながらも大上段からコメントを発することができる優越感みたいなものが伝わって、その繰り返しのなかで、制作側のそうしたスタンスそのものが、少しずつ視る側の多くの人のスタンスになってきているのではないか。

 この飽食の時代に、人間にとってどうあることが幸せなことか、ということだけを一生懸命に考えて、そのコンテンツを求め、制作していくことが、もっと増えてもいいのではないだろうか。

 そういう番組を作りたい人もいるけれど視聴率を理由に制作できないという話も聞くが、実際は、作り手側の資質というか目線の問題として作れないだけではないか。本気で作りたいのなら、喧嘩してでも、クビになってでもやればいいのだから。というより、その覚悟が無ければ、流れは変わらないのではないか。

 「現実は難しい」という言葉は、やる前ではなく、とにもかくにも自分がやった後に、結果を見てから言って欲しい。

 もしも本気で見る人のことを考えて作ろうと思うのなら、作り手は、どういうものを作ることが人を本当に幸せにできるのだろうかと真剣に考え続ける必要がある。そして番組の内容以前の問題として、それを考え続けることじたいに価値があるのだと思う。大事なことは単純化された事実の伝達ではなく、作り手の思いが籠められた作品を通して、生きることに信頼を置けるポジティブな空気が伝播されることなのだから。