人生の勝負時と、消費者意識

 今日、写真を見て欲しいという若い人が事務所に来たので、写真をじっくりと見て、3時間ほど話し込んだ。まだ経験が浅いということもあって荒削りのところもあるが、ところどころにいいところもあって、編集でうまく調理すれば、味も香りもよくなるのではないかと感じところもあった。

 だから話が終わった後、しばらく写真を預かりたいと提案すると、「他の雑誌社にも見せたいので、それはできない。今年、個展をやるつもりなので、色々な雑誌社に取り上げてもらえれば宣伝になるから・・」と仰る。

 ああそうですか、それは残念ですね、サヨナラということになった。

 そして、以前にいた会社で何百人と若い人の採用面接をした時に、同じようなことがたくさんあったことを思い出した。

 一時間くらいじっくりと話し込んで、欠点も多いけれど育てていけばなんとかなるかと腹を決めて、「じゃあ我が社で働きますか?」と言うと、「他に幾つか会社を考えていますので、それを全部受けてから・・・・」と答える。そうなると、「ああそうですか、残念ですね、サヨウナラ」となっておしまい。

 もちろん、どの会社も欲しがるに違いない人なら、「わかりました。じゃあお待ちします」ということになるだろうが、決してそうではなく、本人に強いやる気があれば育て方次第で何とかなるかもと思っただけなので、当人が、そこまで必死でこの会社で働こうという気持がないならば、わざわざ採用することもないということになってしまう。

 そして、どの会社も欲しがるだろう優秀な人材は、こういう勝負時に、間の抜けたやり取りはしない。勝負時にどのように臨むべきかを心得ており、そういう人材は、会社に入ってクライアントと交渉する時も壷を押さえた仕事ができるだろう。しかし、採用試験という勝負時にポイントを外してしまう人は、会社に入った後も同じなのではないかと思ってしまう。

 近年、100社以上の会社の採用セミナーに参加して、ことごとく落とされてしまう人が多いと聞くが、その背景にはこうした事情もあるのではないか。事前にきっちりと対象を研究した上で絞りこんで、そこで勝負を賭けた方がうまくいくかもしれないのに、相手をきちんと研究することもなく、どう働くかという心構えもできていないまま数多く受けて、どこかで引っかかるだろうというのは、少々、思慮が浅すぎるかもしれない。

 こうした心理や行動特性はどこからきているのかなあと考えていたら、一つ思い当たることがあった。

 消費行動と一緒なのだ。たとえば、家電量販店などで、店員から詳しい話を聞いて納得して、それで買ってくれるかと思ったらそうではなく、他の店をまわってもっと安い店があるかどうか見てきますということが、よくあると思う。

 家電量販店は、その対策として、店頭にバーコードを用意しており、それをスマホでチェックすれば他の店やweb上の店舗の価格を確認できるようにしている。もしその店より安いところがあれば、その場で店員に伝え、さらなる値引きを要望できるらしい。家電量販店としては、その店からお客が出てしまうと勝算がないので、値引きしてでも売りたいということらしい。

 日本経済のデフレの背景にはこうした消費者意識が根深くはびこっているので、安倍政権が金融緩和すれば改善されるという単純なものではないと思う。

 店員の好感度や真摯さ、そのやりとりで心が動き、出会いを重視して購入を決断するのではなく、自分が損をしないように、あれこれ他も見てまわって決めたいという心理。自分が、買うか買わないかのイニシアチブを握っているという意識。消費者の権利意識が、消費行動だけでなく、もしかしたら就職活動においても出てしまうのかもしれない。自分の人生を、自分が損をしないように決める権利という具合に。

 しかし悲しいかな、物を買う場合は自分が品定めをすればいいのだが、就職においては、その消費者意識が裏目に出てしまう。物を買う場合と違い、自分が思っているほど選択の余地はないからだ。選択の余地が非常に限られているからこそ、せせこましい分別よりも、出会いの瞬間における判断と決断がより重要になるし、その大事な時に判断と決断を誤らないために事前の準備が重要になる。

 話は冒頭に戻るが、表現者の道は、就職試験よりもさらに狭く、厳しい。チャンスは、あちこちに易々と開かれていない。極めて重要な勝負時というものがあり、それを見極めることができない人は、おそらく、大した表現活動もできないだろう。

 将棋界で初の7タイトル独占を達成した羽生善治が、こんなこと言っていた。

「ハイレベルの戦いにおいては、誰もが精一杯雑巾を絞りきった状態で戦っている。勝つか負けるかは、相手が絞ったという雑巾をさらに絞ってわずか一滴の雫を絞りだせるかどうかの差でしかない」と。

 いくら善戦しようが、負けは負けであり、歴史には残らない。

 表現者になりたいという者は掃いて捨てるほどいるが、その一滴の雫を絞りだせるものだけが、人々の記憶に刻み込まれる作品を作り出し、その他大勢は、その瞬間ごとに人々に消費される(消費されている現象を人気が出たと喜ぶ人もいるが)だけで、長く人々の記憶に残ることもないだろう。それだけシビアな世界であり、中途半端に褒めて浮かれ気分にさせたところで何にもならないどころか、無責任であるとさえ思う。

 最近の表現活動を指向する人達の群れは、お互いに傷つけ合わないでいようねと申し合わせができているかのように、気持ち悪いくらい仲良し小好しなのだが、それとともに、形こそ違えど、作品から伝わってくるものは同質で、炭酸の抜けたビールのようになっている。ハッと目を覚まされるような衝撃と出会うことは極めて稀だ。でも、表現が置かれている状況というものは本来そういうものだろう。将棋界においては勝ち負けがはっきりつくから明らかになるが、写真などにおいては、勝ち負けが形に現れないがないゆえにごまかせている(腐るほど数多い賞などというのは、防衛戦のある厳しい勝負ではなく、消費財の品評会のようになっている)だけであり、1万のものがあれば、絞りきった雑巾からさらに一滴を絞ったものは1つあれば十分なのかもしれない。そのことを自覚できていれば、その貴重な一滴と出会った時に、チャンスをみすみす見逃すことはない。

 表現は、消費財のように簡単に他と取り替えがきくものではなく、一度のチャンスの重みはまったく違う。仕事を選ぶということも、本当は、そういうかけがえのないチャンスとの出会いなのだが、消費者意識の延長で、選択肢の一つと捉えてしまっていることが、いろいろな不幸を生み出しているように思う。大衆メディアや、そのお抱え評論家や学者が、消費者意識の延長で仕事や表現を天秤にかける言説を流し続けていることも原因の一つであり、その影響を簡単に受けてしまう”ナイーブ”な心を、まず始めに改良しなければならないのかもしれない。