老廃物をためこまない生き方

 4月中旬に京都に移住することが決まり、30年続けてきた東京での生活に区切りをつけるために、今、色々なものを捨てている。

 介護現場の取材に行く事が多いが、年配者の家は、足場の踏み場のないほど物が溢れかえっていることが多い。10年、20年、30年という歳月を経て、人間は少しずつ物を買い求めていく。自分では物を蓄えているつもりだが、実際は老廃物のようなものだ。そして、年をとった身体が老廃物を代謝しにくくなるように、年とともに物を捨てることが億劫になり、生きていくうえでどうでもいいものを身の周りに堆積させていく。自分では一つひとつに愛着があるつもりだが、それは、自分の身体の一部だと主張して髪の毛や爪を汚く伸ばしたままの状態にあることに等しい。

 自分の身体も手入れをすることで、自分の周辺に健やかな気が流れるのと同じで(スッキリするという感覚はそういうこと)、自分の暮らしも、人生も、老廃物をためこまないように、時々、手入れをしてやることが必要だ。

 私は、50歳になる頃から、特にそのことを意識するようになった。今、そういう意識を持っていないと、年とともに環境を変えることが億劫になって老廃物を増やしてしまうことが目に見えているからだ。

 身体を動かすこともそう。家の中の物についても同じ。そして、人間関係だって、自分では大切なものと思い込んでいるだけで、実際は、しがらみだけで付き合っていることもあるかもしれない。何かの組織に従属している場合でも、それが生きていくうえで必要だからと自分を納得させていても、本当は、自分が怠慢で、意気地がないだけかもしれない。

 老廃物をためこんでしまうと、本当に大事なもの、本当に愛着を感じるものの見分けがつかなくなってしまう。

 仕事をする場合でも、局面を打開するような、また新たな展開を生み出すような、重要な鍵が目の前をとおりすぎても見落としてしまう。自分の目を曇りのない状態にしておかなければ、一瞬の判断を鈍らせてしまう。本質的に大事なことがわからなくなってしまい、

世間での評判とか、権威に頼ってしまう。近年、行政が税金を使って物を作る時の判断材料も、その傾向が強いが、それは多くの人々の判断傾向がそうなってしまっており、多くの人々のわかりやすい判断傾向の情報蓄積期間である広告代理店に、行政が判断材料を依存する体質になってきているからだ。

 そうした傾向が重なって、特に東京は、数年後には老廃物にしかならないようなものが、活性化という大義名分で作られて行く。それは、家の中に、数年後にはゴミにしかならないものを溜め込んでいく消費活動を活性化と勘違いさせられていることに等しい。次々と物を消費し、ゴミを増やす事は、広告代理店を活性化させる。消費財を作り出す企業も業績をあげることができる。しかし、近年の日本企業を見ればわかるように、そうした活性化はとても不安定だ。なぜなら、早い消費サイクルに合わせる競争は、設備投資のリスクが高いからだ。短期決戦に負ければ全滅。投資した全てが負の遺産になる。そのリスクを少しでも軽減する為、一瞬だけ好景気になっても、企業が、賃金が安く、これからの需要の拡大が期待できる新興国に工場を移転させることに歯止めがきかない。

http://www.nikkei.com/article/DGXNASDF2800Y_R00C14A3NN1000/

 そのことを企業の営利優先だと非難する専門家も多いが、単に企業の問題ではなく、消費サイクルの早さを活性化だとみなすこの国の、そして国民1人ひとりの意識と構造の問題なのだ。

 まずは、一人ひとりが、自分の人生において、広告代理店が作り上げる幻影に惑わされないようにしなければならない。

 最近、心配なのは、消費財だけでばビジネスになりにくくなった為に、広告代理店が、一人ひとりの仕事すら、消費財のような扱いを行なっていること。

 電車の車内広告には転職支援サイトの広告が多いが、スマホで一分で登録完了、あとは、デート中でも、結婚式中でも、仕事の打ち合わせの合間でも、残業中でも、転職活動できることを強調したものがある。http://tenshoku.mynavi.jp/opt/pr004/#ad-image-photo04

 こうした気分が当たり前のことのように共有され、その流れのなかに無自覚に入り込むと、物事がうまくはかどるのかというと、まったくそうではない。こうした小手先のことを繰り返せば繰り返すほど、自分自身もまた消費財のような存在になってしまい、とってつけたような履歴書や面接での受け答えしかできず、先方から”不必要”の烙印をおされてしまう。その都度、落ち込み、焦り、さらに目先の情報にふりまわされ、自分の人生を消費財にしてしまう道の迷路に迷い込んでしまう。

 悲劇だ。そして悪循環だ。企業の海外移転が進み、ハングリー精神旺盛な新興国の若者を採用する日本企業が増え、危機感を煽られた日本の若者が、簡易な就職・転職支援サイトでさらに自分を見失い、不要物扱いされる傾向が強まっていく。

 私自身もまた、戦後の日本社会で教育を受け、高度経済成長から消費財依存の経済の恩恵と洗脳を受け、それに抵抗しながらも、時々は無自覚に取り込まれ、これまで生きてきたし、これからも、その影響からまったく無関係でいることはできないだろう。

 しかし、自分が置かれている状況がそういう構造のなかにあるということを自覚していさえすれば、時おり、自分を戒めて、自分の環境を整え直すことはできる。

 何年かに一度思い切ってリセットできるか、ズルズルと先延ばしにしてしまうかだけの違いかもしれないが、その違いは大きいと思う。

 時々、自分の環境を眺め渡して、本当に大切なものは何なのかを、一つひとつ点検することが必要だ。

 人は誰でも限られた時間だけしか生きることができない。明日、何らかの事故で死んでしまうかもしれない。しょせん老廃物にすぎないものを溜め込んでいると、自分が死んだ後、遺された者は、その莫大な老廃物の前に、何をどう処分すればいいか途方にくれるだろう。そして、廃棄物処理の業者さんに一括して処分を委託することが目に見えている。 

 最近では、葬儀もまた、”焼くだけ”という”処理”扱いが増えている。そのように物扱いされないために、自分の葬儀代くらいは遺しておかなければならないと思うが、葬儀代が残っていても、故人がいったい何をどう大切にしていたのかわからないと、遺された者も、どう対応したらいいかわからないので、手軽な方法で処理するしかなくなる。

 頑固な親父、変わり者の親父と思われようが、自分の好みを明確にしていることも大事なことだ。消費財に依存した経済は、標準化、画一化を強要する。標準化を追いかけることがファッションで、標準化された価値観の中で目立つことを個性的だと勘違いしていると、常に周りの目ばかり気にして、常に何かで着飾っていないと不安になり、その心理が老廃物ばかり溜め込む体質を作って行く。

 その人が本当に愛着を感じるものが、結果として、その人を象る。その人が死んでも、その象は残る。

 その人の周りに存在していた物や人を通して、その人が忍ばれる。

 人は誰でも死ぬ。明日、死んでもいいように、常に身の回りを整理しながら、自分を象るものを、一つひとつ、丁寧に遺していくこと。それ以外に、いったい何の欲求を持つ必要があるのか。


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