帳尻合わせでない、生き方

 友人が、東京の家を売ることになった。売り先は、香港人。最近、東京の土地を買う香港や台湾やシンガポールなどの人が増えているらしい。東京オリンピックも関係あるのかもしれない。

  そして、手続きを進めていると一つ問題が生じた。香港人が、購入する土地が接する境界を100%確定させろと要求してきたのだ。つまり、土地の大きさを測量するだけではなく、境界を接する全ての隣人とのあいだで、境界に関する合意書を作成すべしと。

 確かに日本の90%以上の土地境界は不明確であるという人もいる。コンクリート杭や鋲等の境界標が仮にあっても間違っていることが多々ある。測量図と厳密に照らし合わせると、ズレているケースが多い。特に、斜面地などでは不正確であることが多い。また測量技術の変化によって、古い測量図と現在の状況が違っていることもある。

 その為、土地の境界をめぐる争いが、最近、増えている。という背景を香港人が知っているかどうかわからない。その香港人についているエージェントが、入れ智慧をしているのかもしれないが、完璧な測量図と境界確認書を作ることを求めてきた。日本に移り住む外国人にとって、もし境界の問題に巻き込まれたら対処不可能だ。文化背景も違うし、隣人とのコミュニケーションの取り方、その他、複雑な問題がいっぱいある。日本人が海外の土地を購入する場合も同じであり、契約書面で一点の曇りもない状態にしておきたい気持ちは、よくわかる。

 その友人の土地は、斜面地にあり、歪な形をしている為、境界を接している人の数が多い。その一つは小型のマンションで3者の名義になっているから、3者全員に同意を得なければならない。つごう7者の承認を得なければならず、1人ずつクリアにしていったが、そのうちの一人がアメリカ人で、自分の住居を友人に貸して当人はアメリカに帰ってしまっている。日本に代理人もおかずに。

 そういう場合でも、土地の所有者がそのアメリカ人であるかぎり、彼に署名もしくは捺印をもらわなければ正式の書類は作成できない。

 そのアメリカ人の土地とのあいだには、古くからの境界票が打ち込まれているし、両者の土地の境界は切り立つ崖なので後のトラブルの原因になるとは思えない。しかし、香港人は、完全な書類を求める。

 友人は、現在、そのアメリカ人の家に住んでいるアメリカ人から教えてもらったメールアドレスを頼りに、連絡をして事情を伝える。香港人から要求されている期日が迫っていたので焦りもあり、境界標を写真にとりメールを送り、これを境界とすることで良いか、あなたの土地の大きさは変わることはありませんので、それで良ければ”OK”と言ってくれ、といった類の頼み事をするが、アメリカ人は、自分の目で確認していないし、正式な書類もないので、簡単に”OK”とは言わない。

 しかたがないので他の隣人の合意を得たうえで正式な書類を作成し、それをメールの添付で送り、「その書類をプリントアウトして署名をして、スキャニングしてメールで返送してくれ」と、友人がお願いしても、やってくれない。

 非協力的なのかと思えばそうではなく、国際特急便で書類を郵送したら、郵便が届いた当日に署名をして、すぐに国際特急便で返送してくれた。

 この一連の話を聞いて思ったのは、日本人というのは、帳尻合わせで事をすませようとする国民性があり、その特殊性に自分ではあまり気付いていないということだ。

 たとえば、欧米人が署名をするというのは、ただ名前を書けばいいというわけではなく、神に対する宣誓のようなもので、厳密なものだ(あくまで想像だが)。日本人からすれば、欧米人がサインを重要視している理由がよくわからないし、欧米人からすれば、日本人が判子に頼っていることが理解できない。

 我々日本人は、書類にサインをしてスキャニングしてメールで送るというお手軽な発想をしてしまいがちだが、サインというのは、サインをかわし合う当事者同士の、信頼と責任において交わされるもので、ネット上に安易に公開する類のものではないのかもしれない。

 日本人は、明治維新以降、積極的に欧米文化を輸入してきて、それを身にまとい、欧米世界の一員のような顔をしているが、欧米文化の本質的なことをまったく理解できていない可能性がある。

 ルイヴィトンやシャネルのブランド物を持っていれば、欧米風だと勘違いしている。表面的に帳尻合わせをすることで、それらしくできると思っている。しかし、表面的に帳尻合わせをすることじたいが、欧米文化の本質とかけ離れていることだと気付いていない。

 もちろん、帳尻合わせをすることじたい、完全に間違っているということではない。

 建築などにおいても、当初の図面になかったことでも、予期せぬ事態に対応する為、流れを読んで支障がないように手を入れることは大事なことで、そのセンスが、智慧であり技術だ。

 頑固に設計図どおりにやろうとすることや、例外を認めないのは青臭い対応であり、それは責任を被らない方法ではあるが、その融通のきかない対応が、後の歪みに発展することは多い。

 しかし、帳尻合わせという微妙な手の打ち方も、本質を見誤ると、それこそ形ばかりのものとなり、その時はごまかせても、後になって必ず綻びが生じる。

 最近の日本人の帳尻合わせは、そのような目先の形ばかりのものが増えているような気がする。

 その大きな理由は、中途半端に欧米化しているだけなのに、うまく欧米化できているように錯覚し、日本の伝統文化を理解しているつもりで、そちらもまた型通りにやっているだけで、本質を見失っているためだろう。

 「じゃあどうすればいいのか、わかりやすい答えを言えよ」といった性急な態度もまた、形ばかりの帳尻合わせに慣れてしまい曇らされた意識ゆえのことだろう。

 わからないものはわからないまま考え続けること。実際はどうなんだろうと問い続けること。自分で得た答えにあぐらをかかず、反省し続けること。その時、できるだけ心を澄ませること。心を濁らせるもの、曇らせるもの、を自分の周り積み重ねないこと。

 身の回りの物を整理して、知らず知らず溜め込んでいる余計な物を捨てることも、大事な一歩だ。

 とくに、商業主義の世界が価値付けした物事を自分のアイデンティティにしているような状況だと、視界は曇るばかりだ。

 溜め込んでいるものは、物質だけではない。くだらない世間体や、自分で考えたわけではなく人から刷り込まれた常識や価値観、何かの時に役に立つかもしれないといった人間関係(ただの名刺の膨大な量)や、肩書きだってそうかもしれない。

 何もない空間で、自分とだけ向き合える裸の時間。それが部屋の中でも、自然の中でもかまわない。本質への扉は、そういう無心になれる場所にしか開かれていないように思う。

 


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