藤原新也さんの新著『黄泉の犬』に感応したこと

 『黄泉の犬』は、客観的に分析したり批評できる本ではない。なぜなら、この本に書かれていることについて考えることは、自分自身のことを直接的に考えることだからだ。

 だから、この本について意見を述べることは、この本を読むことで自分の心身の何が直接的に感応したか、ということを言葉に置きかえる行為となる。

 その行為は、この本を解説することではなく、「われわれとは何か?」ということを改めて自分に問い直す作業である。

 自分たちが知らず知らず纏っている衣を脱ぎ捨てて、「われわれとは何か?」という問いの旅に再び旅立つこと。35年前に藤原さんがインドに旅立った時のように、この書物のなかで旅立つこと。

 藤原新也さんは、この書物で、私たち一人一人が全身を侵されている「われらの時代」を描ききろうとしている。

 「われらの時代」を描くというのは、現象としての社会状況を客観的に紹介することではない。現代を生きる私たち一人一人の骨の髄まで侵入されていて、それと意識せずに考えたり行動したりするものが集まった結果として生じている全てのことが「われらの時代」であり、それを描くことは、すなわち自分自身の生身の心身に深く問いかけることだ。

 藤原さんは、この本で、たとえば麻原彰晃水俣病の関係など、オウム真理教に深く言及していくが、その意図は、世間を騒がしたあの事件の背景について、推理小説のように謎解きを行おうとすることではない。

 私たち一人一人の中に根深く潜む「この時代の感性」を、オウム真理教を通して、あぶりだしていくことにあるのではないかと私は思う。

 この時代の感性は、意識していようがいまいが、私たち一人一人の直接的な行為と潜在意識によって作られている。そして、私たち一人一人は、この時代の感性によって作られている。そのなかには、目や耳を通して入ってくる様々な現象、経済や政治や法律や文化における価値観や、教育などを通して擦り込まれた全てのモラルが含まれている。

 この時代と私たち一人一人の関係は、本人が意識しようがしまいが、抜き差しならぬほど深くつながっており、それぞれの影響から無関係でいることはできない。

 私たちは、自分の頭で考えていると思っているが、知らず知らずそのように考えるように、この時代の感性によって仕向けられている。

 私たちは、自分には自分の価値観があると思っているが、知らず知らずそのような価値基準を、この時代の感性によって植え付けられている。

 オウム真理教北朝鮮を突然変異の化け物のように感じる感じ方は、そのように感じさせる時代の感性が、おそらく自分に働きかけているからだ。

 現象的には、メディアの伝え方がその一つと言うことができるが、メディアの情報の伝え方は、その情報の受け手側のニーズに寄り添ったものにすぎず、情報の受け手側のニーズをそのようなものに仕向けていく力こそが、時代の感性だ。

 藤原さんの言葉を借りると、それは「小市民的な感性」と言うべきものかもしれない。

 といってそれは、「この社会に、小市民的な感性の持ち主がたくさんいる。」という現状分析ではない。小市民的というのは、小心で周りのことばかり気にしてビクビクしている臆病者ということではない。胸を反らして声高に話しながら、自分はそこに入っていないと勘違いしている人も、当然そこに入る。われわれの時代に生きるわれわれの全てがそこに入る。

 その小市民的な感性の育まれ方は、単純なものではない。小市民的に育まれていくプロセスの全てが、「われらの時代」と言いかえることができるかもしれない。

 藤原新也さんは、『黄泉の犬』の中で、今日の私たちの生活風土を、無機的で荒涼として砂漠的であると言う。土地の表層の平坦な部分に人工建造物が何の脈絡もなく孤立して建つ私たち日本の生活空間。

 『四方どちらを向いても人間の恣意を受け止める自然の抵抗感がなく、自分の勝手な恣意がどこまでも際限なく増殖していく快感と不安を覚える。中心感覚や人間の恣意を制御する禁忌や規範がないという意味において、それは砂漠の自然形態に似ていると終える。いや砂漠以上にそれは希薄だ。つまり泥土の上の、緑の色彩をほどこされた土地というものの幻影に他ならない。』黄泉の犬p34より抜粋

 そして、『砂漠から生まれたキリスト教イスラム教などに見られる顕著な特徴は、自我を自然の中に溶け込ませることに真我(解脱)を見る東洋の宗教とは大きく異なり、規範なき自然の中における人間の自我の肥大、さらには誇大妄想という精神病理を秘めている。ただし、彼らはそのような誇大妄想の患者であるばかりでなく、自らの治療者でもあった。彼らの宗教は誇大妄想的でありながら、他方、禁欲によって人間の「自我の肥大」を止揚するといった両義性を持っており、キリストを拝むのも、単なる自己犠牲のシンボルではなく、両義性の一方の暗喩である。死とは生への、あるいは欲望への戒めに他ならないからだ。』(本分の藤原さんの文体を少し犠牲にして要素だけ抜粋。)と藤原さんは続ける。

 

 欧米人やイスラム諸国の人々は、東洋人に比べて自我が強いけれど、その自我を律する宗教的生活習慣も身につけている。決して野放図にはならないように欲望を抑制するシステムが、たとえば断食や懺悔など、宗教のなかに組み込まれている。

 近代の日本社会は、西欧化が著しかった。そして近年になってその弊害がいろいろ出てくるようになると、西欧文明そのものに非難の目が向けられる。しかしながら、西欧文明の恩恵である物質社会を捨てたくない人が圧倒的多数だから、その非難も本物にならない。

 西欧文明を大雑把に非難する前に、私たちは、自我を肥大させると同時に、自我を律する知恵を持たなければならなかったのだ。そこに西欧文明の本質があるのに、日本人は、その片方だけを都合良く摂取してきた。だから、頭では西欧文明を非難しながら、安楽を欲する身体を戒めることは少ない。むしろ、その欲求に応えることが称揚されるし、不整備な状態や使いにくい物など、安楽を損なう状況を生み出すものに対して、猛烈な非難をくわえたりする。自我を律するどころか、肥大させることばかりにかまけている。

 そのような自我の肥大ばかりを優先させる環境のなかで育っていくと人間はどうなっていくのか。

 それは今日の様々な社会的現象を見ればわかることであって、オウム真理教の事件だけが、突然変異の化け物なのではない。

 そうした状況に対して、もはや分析したり評論するだけでは何にもならないのだという憤怒に似た情動が、藤原さんの新著『黄泉の犬』の底部に強く流れていることを感じる。

 分析も評論もカルト宗教の自我肥大による誇大妄想に近いものだろう。なにゆえに妄想かといえば、そこに身体的で具体的な感覚が決定的に抜け落ちているからだ。

 農業をやったことがないのに農業を評論する。会社の経営をしたことがないのに経営を評論する。子供と真剣に接したことがないのに、子供の問題を評論する。芸能人のことやスポーツのこと、イラク戦争のこと、北朝鮮のことなどが、まぜこぜになって、世間話として交わされる。そうした評論は、いかようにも打ち立てることができる。何が可能か不可能かも実態として実感することがないままに、無制限に思考の枠を広げ、言葉ばかりが積み重なる。実態のない言葉を無責任に吐くことの快感と不安。一億総評論化時代と言われるが、テレビのなかだけでなく、お茶の間も、ワイドショー化し、評論することが自己表現になっている。

 テレビに登場して、社会の現象を評論する評論家は、現象について語っているのではなく、われらの時代の現象そのものとして、そこに出ている。自己表現ブームのなかの表現もまた、時代を表現しているのではなく、われらの時代の現象の一部にすぎない。

 われらの時代は、物と身体が直接結びつかない環境作りを積極的に行ってきた時代だ。

 そこには、誰にでも当てはまるように平均化した幸福のイメージを、個人特性に関係なく浸透させようとする力が働いている。世界を覆い尽くすグローバリゼーションもその流れのなかにあるのだろう。その結果、私たちは、私たちの幸福感や身体的感覚すらも、生身のものとして感じるのではなく、一種のバーチャルな現象として共有を強いられている。そのプロセスのなかで、当然ながら自分に固有の生の手応えを喪失していく。

 身体的感覚と結びつかない想念は、妄想だ。だから、われわれは、誰しも妄想のなかで生きている。その妄想の集まりが、時代の空気を作り、妄想をさらに増殖させている。

 その妄想が、必要以上に「不安」を煽る。必要以上に「危険」を訴える。必要以上に「愛」を求める。必要以上に、何もかもに対して、「備え」を欲求する。

 そして、複雑なことに、「必要以上に行われること」の総体が、経済指数となり、その数字が大きいほど豊かであるとされる。さらに、「必要以上に行うこと」が数多くある人ほど、生き甲斐があり、活き活きと生きているとみなされたりもする。

 スケジュール帳のアポイントをいっぱいに埋め、いろいろな人と会い、いろいろなイベントに参加する。携帯電話のなかには、いろいろな人の電話番号が並ぶ。そして部屋のなかには、ブランド品をはじめ、「必要以上の物」が溢れかえっている。

 そのように、「本当に必要なこと」と、「必要以上のこと」の境界とか区別がつかなくなる。「必要以上のもの」を求める原因となるものが妄想であり、それが、われらの時代の感性だ。その妄想によって、必要以上に不安に苛まれ、備えを欲する心情になる。

 老後の年金が不安になる。万が一の時に備えて保険に入る。将来に備えて塾に通う。高層ビルの自動回転ドアや、マンションの耐震構造に不安を持つ。魚介類の出荷の前に強力な塩素で殺菌する。子供の学校は荒れた公立より私立にすべきだなどと考える。ルールを厳格にし、マニュアルを徹底させる。裏切りがないか目を光らせる。反論を恐れて、自分の意見を言わない。蔭で悪口を言う。蔭で悪口を言われているのではないかと疑う。そのような妄想による不安心理に絡め取られることは、われらの時代を生きていくうえで、もはや当たり前のこととなっており、誰もそのことを不自然だと思わなくなってきている。

 しかし、その一連の思考特性や行動特性こそが、小市民的と言うべきものだ。

 こうした不安心理は、とてもナーバスな均衡状態にあり、そのタガが外れた瞬間、激しく乱れて、収拾がつかなくなる性質を持つ。われらの時代の新聞紙面を騒がす「おかしな事件」の根は、そこにある。他人ごとではない。

 もちろん、自分自身のなかで均衡を保つ努力やエネルギーが大事なことは言うまでもないが、その努力とエネルギーが、われらの時代の「社会性」といわれるものになっている。

 つまり、われわれは、生まれた時から、その不安や猜疑心を引き受けて生きていくことが前提条件になっている。しかし、一人一人の不安が今よりも増大してそれに耐えきれなくなる時、おそらく、一人一人がつくりあげる公共社会は、自分たちが安心を得るための策を練って、一人一人に、今とは質の異なる「社会性」を求める可能性がある。

 つまり、一人一人が自らのモラルによって耐えながら守っている脆弱な規範を信用できなくなり、公の規範で全体を強く縛ることを、一人一人が欲するのではないか。

 その時、人は、自分のなかのモラルを完全に失い、公のモラルの僕になる。

 つまり、自分の意志を持たずに国家のモラルに従い、最悪の事態を引き起こし、後になって、政治家に騙されたなどと言い訳をする。さらに被害者は自分たちだなどと言う。そういう人が圧倒的多数になると、当然ながらそれに媚びてそれを利用する者も現れる。

 小市民的な感性は、そのようにして連続的に増殖していく。

 その流れを修正するためには、一人一人が自分の中に肥大化させている小市民的な感性を乗り越えていくことが必要なのだが、それは簡単なことではない。乗り越えていくことはできなくても、耐える力を身につけることは可能かもしれない。

 その心身のタフネスさを育んでいくプロセスが、旅なのだ。 旅というのは、不安や疑心暗鬼の妄想の前に怯んで立ち止まってしまうと実現できないものだ。

 それらの葛藤を乗り越えて、自らの身体で前に進んでいくこと。旅の醍醐味はそこにある。そのように一歩一歩、自分の直接的な力で進むことで、妄想ではなくリアルな手応えで自分自身の規範を作ることができ、そのことによって、世界と付き合っていくコツを掴める。

 旅に出れば、人は自らの限界を厳粛に知ることになるが、そのように自我を律することで、自我の肥大を止揚する可能性が残されている。

 藤原さんが、若い頃に自分に課した旅は、そういうものだったということが、「黄泉の犬」から伝わってくる。

 もしも自分の子供が引き籠もりになった時、そこから救い出すためには、早期の段階で逡巡したりせず、仕事を辞めるか休むかして、アフリカやインドに向けて一緒に旅に出るしかないだろうと今の私は思う。


風の旅人 (Vol.22(2006))

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