近代の男と女 〜コロー展を見て〜

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 日曜日、国立西洋美術館で開催されているコロー展に行く。
  コローの風景画は大して好きではないが、人物画はとても好きだ。今回の展覧会の目玉として、「真珠の女」を見ることができるが、他にも数多くの人物画が紹介されている。コローの風景画を見る機会は頻繁にあるが、こんなにたくさんの人物画を見る機会は貴重だろう。
 正直言って、コローの風景画は、どこがいいのかよくわからない。
 今回の展覧会で、コローの風景画のなかに、時々、シスレーなど印象派の画家の風景画が並べて展示されており、そちらの方が印象的に見える。
 しかし、コローが生きていた19世紀、彼の風景画は人気があって、よく売れたらしい。
 人物画の方は、売ることを目的として描かれたものではない。ほとんど全ての作品が身近な人を描いたもので、コローにとって人物画は、生計をたてるものではなく、自分の純粋な創作意欲を満たすものだったのだろう。キャンバスを切り刻んだような跡や、烈しく修正したような跡も感じられ、風景画を描く時とは別の魂が、絵に反映されているように感じられる。
 コローの人物画の大半は女性をモデルにしたものだが、それらの作品は、落ち着いて気品があり、内省的で、とても聡明な力を感じさせる。
 それまでの時代、女性の肉体の美しさや色気、マリアの母性愛のようなものを描いた作品は数多くあったが、コローの視点は少し違う。一人の人間として自立し、何かを確信しているかのような不思議に澄んだ気配が、女性から漂っているのだ。
 静かで澱みのない表情と意志的な眼差しは、人に媚びず、自分を裏切らない純粋と、事実をありのままに受け容れるしなやかさを感じさせる。
 壊れやすい無垢の清らかさではなく、人生の様々な機微を知り尽くした確かさと、芯のある個性・・・、分をわきまえ、分を尽くす人間の奥深いたたずまいが、コローの女性像からは伝わってくる。
 それに比べて、時々、描いている男性像は、女性像のような澄んだ美しさがない。鎧を身にまとった男などを描いているのだが、その鎧が、頑なで、いじけた自我に見える。

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 そして、その表情は、何かを強く拒絶しているようだ。おそらくコローは、こうした男性像を通じて、頑迷で、暴力的で、どこか虚しい男の自我を描きだしたかったのではないだろうか。
 コローは、1796年にパリで生まれ、1875年にパリで死んだが、それはまさにフランス革命後の混乱と英雄ナポレオンの時代を経て、フランスが右往左往しながら近代国家の枠組みを整えていく時代だった。
 現代の人間が当たり前のように享受する科学文明、民主主義、市民文化といったものは、コローが生きた時代に急速に発展していったものだ。
 近代国家の統制下で、キリスト教会は神秘性を剥ぎ取られ、世俗化される。社会革命が個人を宗教から解放し、自我の主体性の確立を促す。その結果、人間は、剥き出しになった自我とともに、荒涼として変動著しい世界に、神の力に頼ることなく「自我」で立ち向かわなければならなくなる。
 この市民社会の始まりの時代、家父長制が強力になり、女性を低い地位に拘束した。これは、明治維新における日本もそうだった。そして、芸術をはじめ様々な社会的活動における優位は男性のものだった。男性は社会を向上させるという大義名分で働くが、自己の論理に耽溺し、自己武装と暴力を正当化する。不安で不完全で頑迷な男性的エゴの怪物は、二十世紀になって二つの大戦を引き起こした。
 思えば、コローと同じ時代にパリで活躍したドラクロワに、「民衆を導く自由の女神」という作品があるが、あの絵も、女性が神々しく描かれ、その足元にズボンを脱いだ男が横たわるなど、惨めで滑稽な男たちが描かれている。
 気位だけは高く、見かけだけの恰好を付けているが、実のところ意気地がなく、ひがみっぽい男の現実を示しているようにも見える。
 ドラクロワもまた、多くの作品で、男の底深い虚無と、女の昂然とした美しさを対照的に描きだしている。
 近代以降、男達は自らの力によって神なき大海の荒海に漕ぎ出すが、おどおどと落ち着かず、虚栄心や征服欲、賭博好き(冒険心とか勇気とも言いかえる)の気質などによって当初の志を失い、沈没しそうになるが、それを自力で修正できない。
 昔から男は、女性の直観に対して、ほとんど畏怖の念を抱く。理性や知識によって曇ることのない女性の本性的な眼力。コローは、理想の女性像を、本質から外れていく男に対して、静かながらも確かな意思を秘めた力によって、ふたたび進むべき道を示す存在として描いていたようにも感じられる。
 コローの多くの作品は、自然への憧憬と畏怖だ。
  価値観が大きく変動していく時代に、人間精神の拠り所として自然に眼を向けていたことは間違いないだろう。
 それでも、コローの自然風景画が物足らなく感じるのは、コローの自然解釈が、コローという男性の理性とか思考の範疇(自己都合的)に収まってしまっているように見えるからだ。
 それに対して、彼の描く女性像は、コロー自身の理性とか思考の範疇に収まりきれない女性の深遠さが捉えられている。それがゆえに、どこか謎めいて、引きつけられるものがある。とりわけ、全てを見透かすような、澄んだ眼が力強く迫ってくる。コローの描く男性の目と、女性の目の違いが、とても興味深い。