環境問題以前のこととして

 

 今のこの時期は、多少は暑いけれど風は心地よく吹いており、家でも窓を開けていれば冷房などいらない。しかし、オフィスに出社すると、コンクリートなので朝から熱がこもっている。だから、風を通そうと思い、窓とドアを開ける。そうすると、同じフロアで働いているエリート専門職の人から「みっともないからドアを閉めてくれ」と苦情が出るのだ。以前は、かなり大きくドアを開けていたから仕方ないが、一度苦情を受けてからは3センチくらいの細い竹筒をドアに挟んでいるだけだ。風の通り道を作らないと、窓から風が入ってこないのでそうしている。しかも、日中はほとんど電話も会議もないから静かなもので、近隣の迷惑になるようなことは何もない。しかし、それでも、「みっともないから閉めてくれ」と言ってくる。
 中を覗かれる(といっても3センチだから不可能だが)方がみっともないというならわかるが、廊下を歩くだけの人間が、「みっともない」と思うのは、いったいどういう心理なのだろうと不思議に思う。
 他人のオフィスのドアが少し開いていることが、どうしてそんなに気になってしまうのだろう。
 この季節、私なんぞはネクタイを締めて仕事などできないが、その人はいつもきちんとネクタイをしている。几帳面で、体裁を重んじ、プライベートを大切にして、どちらかというと神経質なのだろうとは思う。オフィスであれ、何であれ、自分の領域と他人の領域に明確な線を引いていたいのだろう。
 風を通してしのげるような状態であっても、ドアを締め切ることを求められると、コンクリートの部屋の場合、どうしてもクーラーをつけざるを得なくなる。もちろんそのことによってエネルギーの使用が多くなるのだけど、それ以外のことでも個人の欲求に一つ一つ対応しようとすると、それだけ様々なものが必要になってくるのだ。子供三人にそれぞれ個室を与えると、クーラーも机もテレビも三人分必要になるように。
 そうしたプライベート化の状況を、果たして”個性豊かな状況”と言ってよいものだろうか。自分のプライベート空間を自分の好きなように彩っているかもしれないが、生き方に関しては、とても画一的な価値観に支配されている。(プライベート空間という仕切りはあるけれど、中身はほとんど同じだったりする。)
 「画一的な生き方」というのは、具体的にどういう職に就きたいかといったことではなく、人生観とか世界観などにおいて、自分自身で考え抜いて選ぶというよりも、世の中が立派だとお墨付きを与えたり、そうすべきだと強要したり、その方がよいからという理由で標準化されているものに従属しがちだということだ。
 そういう社会状況のなかで、「環境問題」が声高く唱えられたりすると、簡単に賛同したりするけれど、そのことによって自分の思考特性まで変えることができるかどうか。つけっぱなしの電気に注意するとか、クーラーの温度を少し高くするといったことは、考え方や価値観を変えるわけではないから配慮することはできる。そして、「そういう小さな積み重ねが大きい」などと知識人は言う。しかし、その種の意見者は、生き方を標準化のなかに押し込めて、その窒息感から逃れるために個別の空間を仕切って、その中に逃げこませる仕掛けの大量消費社会にとって便利な宣伝マンのようなものだろう。ペットボトルにしても、回収ボックスに入れさえすれば環境保護になると安心して幾らでも飲んでいるけれど、ペットボトルのリサイクルのために莫大なエネルギーが費やされていることは隠されているわけだし。
 物事は急激には変わらない。だからといって、「少しずつの配慮」などと言っても、けっきょく構造は変わらない。
 急激にでもなく、少しずつでもなく、ボタンの掛け方を変えなければならないのではないか。
 「環境問題」や「食糧問題」や「青少年の心の歪み」など今日のメディアが好んで取りあげる問題の多くに言えることだが、一番の悪弊は、”見てくればかり重視する”ということではないかと思う。
 ドアの隙間もそうだけど、食べ物にしても、形が悪いという理由だけで破棄される。服や家具にしても、少し傷ついたり、汚れたりするだけで、価値が無くなったとみなされる。食べ物は不健康で不味いくせに、空間プロデューサーとやらがつくった見かけばかりの店で高いお金を払わされる。
 有名大学への進学、有名企業への就職といったことも、給与の高さや安定性などと口にするが、その動機の主たる部分は、親が世間体ばかりを気にして、子供にその価値観を押しつけていたりする。だから、肝腎の子供よりも、親の方が喜んだり悲しんだりすることがある。
 そして、その「見てくれの良さ」の多くが、自分の感受性でそれがいいと判断しているというよりも、世間がつくりあげている価値観にただ従属しているだけということが多いのだ。
 見てくれを気にしないようにするのではなく、自分にとって、それがいいと感じられるかどうか、といったことを基準にする生き方が少しでもできるようになると、自分にとって本当に必要なところに、お金やエネルギーを使えるだろう。そして、その方が、結果的に自分を幸福にするし、環境問題や食糧問題など多くの問題の改善にもつながっているのではないだろうか。