藤原新也さんの朝日新聞の寄稿文について

 藤原新也さんが朝日新聞に寄稿した記事→ http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php?mode=cal_view&no=20061121

 について、「藤原さんも新聞紙上で”苛め”をしているじゃないか」と批判する人がいる。

 子供が携帯電話に「ゴキブリ」と書くことも、藤原さんが朝日新聞で電車の中で出会った子供のことを書くことも、どちらも自分の嫌いなことに対する露骨な差別意識ではないか。差別してお金をもらう方が、タチが悪いのではないかと、その人は言う。

 しかし、子供が携帯電話に「ゴキブリ」と書くことや、藤原さんが朝日新聞に書いたことは、書かれたことそのものだけを指して、”苛め”とは言えないと私は思う。

「自分の中の嫌なもの」に対する区別意識が、イコール”苛め”ではないだろう。

 人間誰しも聖人ではないのだから、「嫌なもの」に対して区別意識があってもかまわない。

 問題は、その「嫌なもの」に対して、どのように対応するかではないかと思う。

 苛めというのは、その「嫌なもの」の存在自体を許せないものとみなし、集団で制裁しようとする。集団でなく個人であっても、執拗に攻撃し続け、相手を窮地に追い込んでいく。

 藤原さんは、「ごきぶり」という言葉そのものを批判しているのではなく、その言葉の背後に、携帯を通じて誰かと連係をとりながら特定の個人を攻撃する可能性が育まれていることを想像し、懸念しているのだろう。だから、その子供に「ゴキブリってなんのこと?」と問うている。

 決して、「オレの嫌いなゴキブリをいう言葉をみせやがって!」と怒っているわけではない。

 また、その子供を特定化し、白日の下に晒しているわけではない。しかも、その子供は、電車の中の藤原さんとの会話において、特に深く傷つけられたり、恥をかかされているわけでもない(と思う)。

 不特定か特定かを問わず何かを批判する言葉は、その言葉そのものではなく、その言葉の背後にあるものこそが、「苛め」の土壌になるのだと私は思う。

 子供が携帯に書いた「ゴキブリ」という言葉の背後には、「くるしいけど、・・・しかたがない」という言葉に隠された怨みや苛立ちや不満が、もしかしたら鬱積しているかもしれない。

 藤原さんの言葉の背後には、憎悪ではなく、相手に対する憂慮があるだろうと思う。

 憎悪や不満は、積もり積もったり、何かの拍子でタガが外れると自分を省みる余裕がなくなり、同じような不満や憎悪を持つ者と連係して集団化し、相手に対する執拗な攻撃に転化しやすい。しかし、憂慮は、相手を守りたいという気持ちが根本に宿っているから、そうはならず、どうすればいいのかという問いが、いつも自分に返ってくる。

 どんな議論も、苛めも、自分を振り返る余地があるかどうかが、鍵ではないかと思う。