第1099回 日本の古層vol.2   祟りの正体。時代の転換期と鬼(3)

 日本の歴史は、リーダー(権力者)の足跡を追っていても本質が見えてこない。

 リーダー(権力者)は、今でもそうだが、必ず他の誰かに取って代わられることが前提であり、その人物の治世において何かが成されていたとしても、その多くが、それ以前に準備されてきたものだ。

 そして、そうした準備は、権力の前面に立たないところで行われている。栄枯盛衰の波にさらされるリーダー(権力者)と違って、したたかに時代を超えて生き延びていく者たちによって。

 だからといって背後に隠れた存在が、悪人で、自らの権益のために陰で物事を企んでいるという単純なことでもない。人は、食べて遊んで寝ることだけに喜びを感じる種ではなく、生きるためには何かしらの生き甲斐を必要とする。それは古代から変わらず、歴史の表舞台に立っていないけれど、そうしたミッションのために活動し続けた人たちがいる。

 例えば、菅原道眞の祟りについての話になると、道眞と藤原時平の権力争いのような単純化され、道眞が死んだ後に次々と災いが起こったために道眞の祟りと恐れられ、神として祀られるようになったというのが一般的な話である。

 しかし、菅原道眞と藤原時平という個人の確執が、事の本質ではない。

 事の本質を理解するためには、祟り騒ぎの後、世の中がどうなったかを知ることが鍵となる。

 ”道眞の祟り”される現象に一番苦しめられたのは、第61代朱雀天皇である。(在位930-946)。この天皇の時、京都で疫病などが流行しただけでなく、富士山の噴火や地震など天変地異も多かった。

 現在も世界中で大騒ぎしているウィルスは、それ自体の攻撃力で人間を殺すわけではない。細菌の複合感染や他の病気との合併症が死因であり、100年前のスペイン風邪の場合は、第一次世界対戦の影響での栄養失調と劣悪な衛生条件による細菌の複合感染が死因と後の研究で分析されており、現在の新型コロナウィルスも、飽食の結果としての肥満や糖尿病などの成人病などとの強い関係が、後の研究で分析されることになるだろう。

 10世紀、菅原道眞の祟りが騒がれた時も、何かしらの複合的な要素が重なった混乱があった。自然災害、そして疫病。さらに、貴族の時代から武士の時代への転換の先駆けとされる藤原純友平将門の乱(939)が起きている。

 そうした時代の転換は、急に起こるものではなく、それ以前に少しずつ準備されていた。

 そのことを考えると、菅原道眞と藤原時平の確執というのは、時代の変化に対応しようとする勢力と、その流れに逆らおうとした勢力との確執であると想像できる。

 どちらが抵抗勢力であったかは、道眞の祟りの後にどうなったかを見れば明らかだ。

 道眞の祟りとされる現象を経て、第61代朱雀天皇は、古代律令制の要であった班田収授を放棄し、人頭税から地頭税へと改革を行った。

 菅原道眞を太宰府に流した藤原時平は、第60代醍醐天皇と組んで延喜の改革を行っていたが、これは現状に合わなくなっている律令制固執するものであり、そのために、醍醐天皇は後の時代の朝廷から高く評価されるが、実際は、時計の針を戻そうとする悪あがきにすぎなかった。だからすぐにこの改革は頓挫した。

 道眞の死後、祟りを仕掛けた勢力が結集して、方向修正をさせたのだった。

 藤原時平サイドは、崇高な志をもって律令制を維持しようとしたわけではない。

 律令制の基盤は、土地は朝廷のもので、耕作者は死んだら朝廷に土地を返す。そして税金は土地の大きさではなく人間の頭数にかかる。

 にもかかわらず、奈良時代以降、飢餓などを乗り越えるために全体の生産性を上げることなどが口実となって法律の改正が繰り返され、自ら開墾した土地の私有が認められるようになっていった。

 これを巧みに利用したのが藤原時平など藤原摂関家で、逃亡農民を荘園で使うことで、利を蓄えていった。

 朝廷の土地から農民が逃亡して藤原氏の荘園に雇われれば、人頭税は減る。そして、藤原氏の荘園は潤う。こうした状況を抜本的に改革しようとしたのが第59代宇多天皇と菅原道眞だった。

 宇多天皇は、生まれた時から天皇になる予定のなかった人物で、天皇に仕える源氏の身分で青少年時代を過ごした。

 しかし、突然、事態が急変し、これもまた天皇になる予定のなかった父親が55歳になって、突然、光孝天皇として即位させられ、その三年後に亡くなり、息子の宇多天皇が即位する。明らかに、光孝天皇は布石であり、背後に宇多天皇を即位させるための力が働いていたと考えるのが自然だ。宇多天皇を強く支えたのは、藤原淑子の実家の難波氏や、母親の班子女王の実家の当宗氏で、ともに渡来系の氏族である。

 この宇多天皇が政治を行うえで頼りにしたのが、藤原氏ではなく、菅原道眞(土師氏)だった。

 だからおそらく、宇多天皇と菅原道眞は、農民の逃亡や、荘園の優遇といった現状が律令制にそぐわなくなっている状況において、税制改革などの行政改革を行おうとしたが、抵抗勢力にそれを阻まれた。しかし、祟りという仕掛けによって、抵抗勢力は取り除かれることになった。

 宇多天皇の母親の班子女王の実家、当宗氏は、平安時代初期に軍神として活躍した坂上田村麻呂で知られる東漢坂上の一族である漢系渡来氏族なのだが、坂上氏は、武門を家業としていた。そして、北野天満宮が創建された頃(947)、第56代清和天皇の血統でありながら武士としての歩みを始めた源満仲が、京都から摂津の多田の地に移り、所領として開拓するとともに多くの郎党を養い武士団を形成していくが、その中心に坂上氏を置いた。

 これが、後の時代、源頼朝足利尊氏新田義貞武田信玄などに連なる清和源氏の武士としての興りである。

 清和源氏の武士としての歩みは、菅原道眞の祟りの後に、力強くなっていくのだ。 そして、このように時代の秩序が大きく変わる時、見境のない勢いだけではうまくいかず、周到な準備もまた必要である。

 源満仲は、住吉神の神託によって摂津の多田の地を選んだとされるが、そうではなく、その地へと導いた智慧者がいたということ。

 多田の地は、有数な鉱山であり、満仲は積極的に鉱山開発を行った。

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多田銀銅山

 食物と金属、これらがなければ、人を養っていけないし、自分たちを守ることができない。とくに田畑を耕したり治水灌漑を行う道具や武器として鉄は重要な鉱物であった。

 日本国中、祟りや鬼と関わりのあるところのほとんどが、鉱物資源(とくに鉄)と関わりが深いのである。

 そして、こうした情報と智慧に通じる人たちが存在していた。以前からあった場所の情報を持ち、新たな開発において、その場所の特徴を見極める目と感覚を備えた人々。こうした人たちは、どの権力者からも重んじられるので、権力の表舞台に立つ必要はなかった。そして、自分たちの存在価値をより確かなものにし、長く生き延びていく方法は、権力争いに顔を突っ込むのではなく、自分たちの智慧や情報ネットワークを、より充実させていくことだった。

 どうやら、こうした役割に徹する人は、弥生時代の始まり頃から(もしかしたらそれ以前から)存在していたようだ。(続く)

 

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