自分を見失う理由

 たとえば写真の売り込みなどにおいて、「日本の雑誌用にデジカメで森の写真を撮っていますので、見ていただけますか」などと言ってくる人がいる。

 「日本の雑誌用というのは、どういうことですか?」と聞くと、「日本の雑誌の編集部に売り込みをすると、フィルムだと見てもらえず、今はみんなデジカメデータを要求するので、それで撮っているのです」と答える。

 「?!」 

 それに対して、私は、「風の旅人をご覧いただいていれば分かると思いますが、写真を見開きで大きく掲載する構成が多く、ディティールの再現性や滑らかさや立体感は、まだフィルムの方が優れているので、デジカメ写真はこれまであまり使ったことがありません」と答えると、「そうですか、自分は、35mmのポジや4×5のポジでもずっと写真を撮っていて、フィルムで撮った後に、同じ場所と画角で雑誌への売り込み用に、デジカメでも押さえています。だから実はフィルムがメインなんです。ならばフィルムで見てもらえますか」と言う。

 こういうやり取りをすると、私は返事に困る。なにゆえに自分が一番自信のあるもので勝負しようとしないのか、理解できないのだ。もし「風の旅人」に掲載されている写真をしっかりと見ていれば、自分が一番自信のある写真でも、それらに太刀打ちできない可能性は高い。かりに、その人の方が実力が上だとしても、数ページにわたる組み写真で大きく掲載されるのであれば、とりあえず押さえで撮っているデジカメよりも、自分がメインにしているフィルムで、自分の力を正当に評価してもらいたいと思うのが自然ではないだろうか。

 ということを私が言うと、「日本の雑誌社の人が、そうだから・・・」などと反論する。日本の雑誌社の人という中に、全てを当てはめて一つのイメージを作りあげ、そのイメージに対応するための措置を取ろうとしている。

 おおよそだいたいのところは、そういう措置の方がうまくいくのだろう。だから、そうしているのだろう。だけど、私は、「日本の雑誌社の人」というカテゴリーの中で仕事をしているのではない。

 そういうことを見極めずに、型通りの方法でアプローチすること。確率論として、その方がうまくいくのかもしれないが、「けっきょく自分は何のために写真を撮っているのか」という部分が、そうしているうちに骨抜きになっていってしまうのではないか。

 相手に合わせるということも時には必要だろうが、大事な局面で判断し決断する時に、そういうスタンスをとってしまうと、何のための判断と決断なのかわからなくなってしまう。

 「現実がこうだから・・・」とか「社会がこういうものだから・・」という言い訳も同じだろう。現実が完全にそうなっているわけではなく、そのような傾向が強いということにすぎない。その傾向を決定的なものにしていく力は、「現実がこうだから・・・」と言いながらそれに従属していく無数の人々のスタンスの積み重ねなのだと思う。

 現実は確かに厳しくて甘くはない。だから、自分が自信のあるもので勝負してもうまくいかない可能性は高い。だからといって、その厳しいとされる現実に迎合したもので勝負すれば、うまくいくというものではないだろう。

 うまくいくかいかないかは、二の次として、球を投げる場合は、まず相手を見て見極めることから始めなければならない。

 「日本の雑誌社の人」という傾向について、友人達と論じ合ったり、愚痴ったりするのは構わないのだが、自分の勝負球を投げる状況の時、”相手本人”ではなく”一般的傾向”に向かって投げてもしかたがないのではないかと思う。

 写真を撮る場合でも、対象そのものを撮るのではなく、自分のなかに擦り込まれた一般的傾向のなかに対象を置いて処理したものが多い。

 そういう対象への向き合い方は、相手を見失うと同時に、自分を見失ってしまっている。自己表現をしているつもりで、実のところ、一般的傾向の一部になっている自分を無自覚にさらけ出しているにすぎないのではないだろうか。



風の旅人 (Vol.22(2006))

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