これから

 

「風の旅人」は、次号(2/1発行)の第39号で7年。その次から8年目に入る。

  少し前までは、7年のキリの良いところで辞めるつもりだった。もはや雑誌の時代ではないという気分もあるし、経済不振でスポンサーの獲得も難しくなっているから。

 また、もともと私は出版業界の人間ではなく、旅行業が本業だったので、雑誌という抽象的な場を通じて社会と接点を持つだけでなく、リアルな現場で仕事を成就させていく方法を、改めて見出したいという感覚もある。  

 近年、社会が変化しているように見えているが、社会は、人間の意識変化の準備を推し進めているだけであって、その動きが臨界点に達し人間の意識が変化した時、社会は、本当の意味で変化するのだと私は感じている。

 変化は、変化以前の状態の延長線上に現れるのではなく、潜在的な準備が臨界点に達した時、それまでの価値基準が転換するようにして訪れる。

 具体的に説明すると、たとえば会社でオーナー所有の株式が2/3以上の時は、オーナーの意思決定力によって、オーナーの経験やビジョンに沿った物事が展開していく。つまり、現状の延長線上に対してアンテナをきちんと張り、オーナーの気質を熟知さえしていれば、次なる段階のシミュレーションは可能だ。

 しかし、経営意欲が減退したオーナーが少しずつ自社株を手放して現金化し、それまでは全体の10%ほどしか株式を保有していなかった勢力が少しずつ持ち株を増やし、50%以上を保有し始めた瞬間、経営のイニシアチブは完全に切り替わる。本当の変化は、そこから劇的に始まる。

 単純化しすぎているところもあるが、社会の場合も同じだと思う。社会の中で従来の価値観やビジョンを素直に受け入れることのできない気分は、企業でいえば、オーナーの経営意欲の減退に等しい。そうなると、オーナーが持株を少しずつ手放していくように、従来の価値観やビジョンに基づいて作られているものが、機能しなくなってくる。具体的に言えば、「新聞に書かれているニュースは正しいので、それだけを読んでいれば時代に遅れない」という気分が著しく減退していくことも一例だ。

 そういう状態が続き、ある日、それまでの権威的勢力がイニシアチブを握ることの可能なシェアを失った時、シェアが大きいからこそ得られていた様々な強みも同時に失い、それに取ってかわる勢力がつくりあげるシステムによって物事が動くようになる。パラダイムシフトは、そのようにして起るだろう。

 中世においても、聖職者の支配力が強い間は、科学的見識を持っている人がいたとしても、科学を中心に社会はまわらないが、科学的見識が臨界点に達した瞬間から、社会のイニシアチブは、180度転換する。

 現在は、まさにそうした新変化が起こる臨界点の直前に迫りつつあるのではないか。

 私が、これまでの7年間、時代の風潮に寄り添わない「風の旅人」を作り続けてきたのは、そうしたパラダイムシフトが、将来間違いなく起きるだろうという確信があったからだ。

将来の世界観や人生観のパラダイムシフトに備えた心の準備。それが私にとっての「風の旅人」である。

 だから、私が「風の旅人」で紹介する写真や文章は、現状をなぞるものではなく、現状のなかでは見えにくいものの確かに存在し、いずれそういうことがきっと大事になってくるという“兆し”でなければならない。

 だから、今、どの写真家が評判であるか、などという写真業界に寄生する人々の噂話など、私はまったく興味がない。

 

 これまで、私は、そうしたスタンスで「風の旅人」を作ってきたのだけれど、そろそろ次の段階に進まなければならないという気持ちになっている。

 私がこれまでやってきた「旅行」の仕事と、「風の旅人」の仕事の二つの線を組み合わせても、平面にしかならない。さらにもう一本の線を引いて、立体構造にしたいのだ。

 もう一本の線がどういうものかは、まだ手探りであるけれど、雑誌という抽象的な世界ではなく、社会の中のリアルな物事と直接関わっていくようなものにしたい。

 一見、ジャンルは違うもののように見えて、本質的には、自分がこれまでやってきた「世間の一般的価値観から見れば、ちょっと変った旅行業」と「同じく、ちょっと変った『風の旅人』」と、通じ合えるようなもの。

 そういうものは、自分の頭のなかであれこれ考えてアウトプットされるのではなく、これまでのように、“出会い”の力によって、自分でも思ってみなかった方向に、後で振り返って初めて必然の動きだと気づくような方向に、整えられていくのだろうと思う。

 頭の中で考えていることは、しょせんこれまでの知識や体験のうち自分で認識できることだけが基になっている。その程度のことは、既に終わっている。これから必要なことは、現時点で自分では具体的に認識できていないこと。でも、ベクトルだけは何となくわかっていること。そういう状態の時は、とにかく、人と会って、手を動かしてみるしかない。

 何をすべきか明らかになってきさえすれば、それを行っていくための準備は、社会的に整ってきており、それらを生かしていくことは十分に可能だろう。

新しくボタンを作るのではなく、ボタンは全部揃っているけれども掛け方がズレており、そのために窮屈で肩が凝るような思いをしている。私達が置かれている状態を、私は、そのように把握している。

 つまりシステムじたいは、そんなに悪くはない。でも、使い方が、ちょっとズレている。そのズレや、それに伴う歪みを薬で治そうとしても、本質的にはよくならないが、整体でズレを治し、全体の循環を取り戻しさえすれば、いろいろなことがうまくいきはじめるかもしれない。

 楽観的すぎるかもしれないけれど、現代をそのように捉えるだけでも、物事が違って見えるかもしれない。